浅井忠の肖像

(あさい ちゅう・1856-1907)

 このコーナーでは、千葉県立美術館が収蔵する近代日本洋画の先駆者・浅井忠(あさい ちゅう)の作品を中心に、その生涯や主な活動などを随時紹介していく予定です。

時代
活動
主な収蔵作品

※(研)とあるのは研究資料

1.出生から上京まで

-少年時代

 浅井忠は安政3年(1856)に江戸木挽町(現、東京都中央区銀座2丁目)の佐倉藩(千葉県)邸内で、父、常明、母、きりの長男として生まれました。文久3年(1863)に父が逝去したため、浅井は8歳で家督を相続し、16歳までの少年時代を佐倉で過ごします。

 佐倉では、藩校で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から藩の南画家・黒沼槐山(くろぬま かいざん)に花鳥画の手ほどきを受け、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現していました。

◯黒沼槐山「花鳥図」

◯草書千字文(研)

2.上京から工部美術学校退校まで

ー修学時代

 明治6年(1873)に上京し、父の友人だった思想家、西村茂樹に英学(英語を中心とした洋学)を学びますが、洋画への思いが強く、周囲の反対を押し切って明治9年(1876)から国澤新九郎(くにさわ しんくろう)の画塾彰技堂に入門し、初めて洋画を学びます。

 次いで同年、我が国で初めて創設された官立の美術学校、工部美術学校画学科に入学してイタリア人教師のフォンタネージに師事し、本格的な美術教育を受けました。師の作風の影響を最もよく受け継いだのは浅井だと言われています。

◯女の顔(模写)

◯少女

◯印旛沼

◯風景(1)

◯風景(2)

3.十一会結成と試行錯誤の時代

 明治11年(1878)、病気や学校に対する意見の相違などの理由でフォンタネージは帰国しますが、その後任の教師を不満として浅井と小山正太郎らその仲間は同校を退学。そして退学した同志11人で明治11年11月11日に「十一会」を結成しました。当時、来日したアメリカ人教育者フェノロサらによる国粋主義によって洋画排斥運動が高まるなかで洋画研究を進めます。この時代は、学校を離れた浅井が周囲の逆風と戦いながら写生旅行や教鞭をとったり、本を書いたりしながら自己を磨いた時代でした。

◯藁屋根

◯沢入駅

◯曳舟通り

◯房州白浜

 

4.明治美術会の結成へ

 洋画排斥運動が高まるなか、明治15年と17年に開催された第1回、第2回内国絵画共進会では、ついに洋画は除外されることになりましたが、このことはかえって洋画を志す作家たちの団結力を深め、浅井は明治22年(1889)に小山正太郎、松岡寿らと我が国最初の洋画団体「明治美術会」を設立し、その中心として活躍することになります。浅井の「春畝」、「収穫」はこの明治美術会展の第1回展、2回展に出品されました。明治25年(1892)には、教場(のちの明治美術学校)も開かれ、後進の指導にあたります。

◯母の肖像

◯ほしかき

◯田植の図

5.日清戦争従軍

 

 明治27年(1894)に日清戦争が勃発した際には、時事新報の画報隊として従軍し、戦場を題材とした臨場感溢れる作品を残しています。この時、速写としての水彩画というものを改めて自覚したようです。帰国後、明治26年にフランスから帰国していた黒田清輝の「外光派」に対して「脂派」と呼ばれ、対立的な立場に押し上げられ、明治29年に新設された東京美術学校で、黒田とともに教鞭をとることになります。明治美術学校は閉校されました。

◯金州城壁上

◯金州城南門外

◯従征画稿(研)

◯漁婦

6.滞欧時代

 明治31年(1898)に、東京美術学校教授として任命されましたが、翌年、パリ万国博覧会の鑑査官をとして、西洋画研究のため文部省から2年間のフランス留学を命じられて33年(1900)に渡仏します。フランスでは、印象派などの作品や当時、全盛期だったアールヌーヴォーの運動に触れるとともに、パリ郊外のフォンテンブローやグレーで多くの名作を描きました。その滞在期間はわずか2年余りでしたが、浅井の絶頂期といえる水彩画の秀作の数々は、この時代に生まれています。

◯パリ公園

◯農婦

◯男性裸像

◯フォンテンブローの森

◯洋上の夕日

◯欧州市場風俗

欧州日記・附巴里日記(研)

滞在欧時代使用手帳(研)

◯自筆絵葉書(研)

◯フォンテンブローの夕景

7.京都時代

 ヨーロッパ留学中に知り合った中沢岩太の誘いを受け、帰国後の明治35年以降は新設の京都高等工芸学校教授(現、京都工芸繊維大学)の図案科教授として京都に住みます。

 翌年には、聖護院洋画研究所(明治39年には関西美術院に発展)を開設して後進を指導するとともに、関西美術会を通じて京都の洋画界の中心的存在として活動し、その発展に大きく貢献しました。

 また、日本画にも深い関心を示し、各地の名所を描き、本として発行しています。

更に、ヨーロッパ留学中に触れたアール・ヌ−ヴォ−や日本の伝統文様などを生かした、独自の図案を創作するほか、遊陶園、京漆園などの設立に参加し、工芸図案の革新にも力を注ぎました。

 明治40年(1907)に京都にて急逝しました。

◯老母像

◯婦人像

◯京都高等工芸学校の庭

◯奈良郊外

◯中沢岩太像

◯農家

◯琵琶法師

◯茶器「猿蟹合戦図」

◯向付皿、楊子挿

◯草花盆

◯お福の像

◯桔梗文花瓶

◯魚(花瓶図案)

その他

制作年不祥の作品

◯カルタとりの女児