明治17年(1884)〜昭和5年(1930)

《木華開耶姫》 明治39年(1906)
絹本・着彩 縦115.0× 横60.0cm
【千葉県立美術館蔵】
《魚樵》  大正2年(1913)
絹本・着彩 縦167.8×横369.0cm
【千葉県立美術館蔵】
《桃源》  大正2年(1913)
絹本・着彩 縦168.0×横369.0cm
【千葉県立美術館蔵】

 石井林響は、明治17年、山武郡土気本郷町下大和田に生まれました。明治30年に旧制千葉中学校に入学した石井は寮生となり、舎監の堀江と接します。なまりがあって、動作のゆっくりした田舎少年だったそうですが、鋭い描線で対象を捉えた絵に、堀江は驚かされました。

 堀江は休みの日などに維新の志士の話や、大幸館時代の話、自分の少年時代の話や画人の話などを石井に聞かせるのが楽しみだったそうです。
石井に日本画の才能を見出した堀江の紹介により、石井は旧制千賀中学校を中退して橋本雅邦の門に入ります。

 明治39年作の《木華開耶姫》は橋本門下の二葉会で2等、同年《童女の姿となりて》が銀賞に輝きました。大正元年には第6回文展で《白映》が褒状を受賞します。

その作風は、明治期の歴史画から大正期に入って鮮やかな色彩を展開し、その後、明治41年に師の雅邦を失った頃から南画に傾倒します。昭和元年郷里に近い大網にアトリエを設け、山村で小鳥を飼い、草花を育て、なまずやおたまじゃくしを写生する日々を送ります。

 昭和5年、48歳の若さで脳溢血のため他界します。期待していた愛弟子に先立たれた堀江の悲しみは深かったといいます。

石井林響

  関連作品一覧