《裸婦》 昭和4年(1929)
キャンバス・油彩 縦79.0× 横115.0cm
【千葉県立美術館蔵】
《金魚》  昭和4年(1929)
キャンバス・油彩 縦65.0×横92.0cm
【千葉県立美術館蔵】
 

 板倉鼎は、明治34年埼玉県に長男として生まれました。家は代々漢方医でしたが、父は西洋医学を学んでおり、松戸市に移り住み開業しました。板倉は松戸尋常高等小学校3年の時の作文に絵描きになりたいと書いています。

 大正2年、千葉中学校に入学し、寄宿舎「敬義寮」に入ります。当時の敬義寮には寮生が154名にも及び、最も寮生の多い時期でした。寮では5人1室で生活をともにしていました。

板倉が入学した大正2年に絵と書道のクラブ「葛城画会」が創設されました。板倉はこの葛城画会で初めて油絵を描きました。当時、1週間の正規授業時間29時間のうち図画工作は1時間しかなく、この時間に自由画である自在画と器具を使って描く用器画を習いました。
 画家志望の板倉にとっては物足りなかったでしょうが、寮で舎監の堀江に夜に指導を受けることが出来ました。堀江は長く独身でしたから、寮に寝泊まりしていました。

医師を継がせようとしていた板倉の父は、板倉の画家志望を知り激怒しました。板倉は親の薦めた仙台高等学校をわざと落ちるよう英語の答案を白紙で提出し、家を勘当されそうになります。
大正8年、東京美術学校西洋画科で岡田三郎助らに学びます。在校中から帝展に連続入選し、卒業後大正15年に渡仏します。フランスでは、キュビズム、フォービズムはじめ、エコールドパリの作家たちとも交流を持ち、自らもキスリングや藤田嗣治を思わせる作品を描き、フランスのサロンでも入選を果たしましたが、昭和4年帰国を目前に敗血症のため28歳の若さでパリで亡くなりました。

板倉 鼎

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明治34年(1901)〜昭和4年(1929)