《内田邦彦像》 大正2(1913)
キャンバス・油彩 縦45.5× 横38.0cm
【千葉県立美術館蔵】
《デッサン(腰かける裸婦)》  制作年不詳
紙・木炭 縦63.0×横48.0cm
【千葉県立美術館蔵】
 

 柳敬助は、明治14年、君津市泉の医者、山田家の次男に生まれますが親戚の柳家を継ぎます。明治28年に旧制千葉中学校に入学し、その2年後の明治30年に堀江が千葉中学校に赴任します。

 卒業後、東京美術学校西洋画科で黒田の指導を受けますが、海外遊学の希望が強く、黒田の時期尚早という言葉も聞かず、明治36年に中退しました。同年、渡米し洋画を学びます。
 渡米中に萩原守衛、高村光太郎らと知り合います。その後、ロンドン、さらにはパリに渡り、明治42年に帰国しました。

 明治43年に守衛の計らいで新宿中村屋隣りの写真館を買い取り、守衛の設計によるアトリエを設けています。同年、第4回文展で「朱胴」が褒状を受けます。その後も文展に出品を重ねます。

 大正12年5月に病で亡くなり、同年9月、東京三越での追悼遺作展覧会初日に関東大震災に遭い、遺作の大半を失いました。
 《堀江正章の肖像》は、大正5年頃の作で、堀江の遺族が所蔵していましたが、現在は修復されて、県立千葉高校美術館に収蔵されています。
堀江の風貌を知ることのできる貴重な作品です。
 本館では、《内田邦彦像》《デッサン(腰かける裸婦)》など、柳の洋画2展、デッサン10展の作品を収蔵しています。

柳 敬助

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明治14年(1881)〜大正12年(1923)