■ パリの生活

  パリに着いてから、はじめはパルテノン広場近くのホテルに入りましたが日当たりが悪く、困っていました。10日ほど過ぎた頃、池辺義象(いけべよしかた/国文学者、歌人)の訪問がきっかけで、博覧会場近くのマラコフ通り(現在のレイモン・ポアンカレ通り)にある、池辺たちの宿に移りました。そこはドアを開けて中に入ると、1つの座敷と2つの部屋に分かれていました。浅井、池辺、福地復一(ふくちふくいち/東京美術学校図案科初代教授)の3人は、くじ引きで使う部屋を決め、浅井が引いた部屋からは、凱旋門、エッフェル塔、博覧会場の様子が眺められました。
日当たりの悪い1人部屋から、眺めのよい3人部屋への引越しは、異国での緊張や不安を和らげてくれたことでしょう。この時知り合った池辺とは、日本に戻ってからも一緒に旅行に出かけるなど、生涯の友として親交が続きました。
 宿の近くに日本人向けのホテルと、ホテル内に日本料理店があり、最初の頃は日に数回訪れていました。このホテル Hotel Tatruny は、諏訪秀三郎が、博覧会でパリを訪れる日本人客を見込んで建てたものです。諏訪はフランス滞在が長くフランス語が堪能でした。植物学者である南方熊楠は、諏訪の話すフランス語を障子一枚隔てて聞くと、日本人と聞こえなかったと回想しています。
 間もなくしてメイドを雇い、メイドの手料理を部屋で摂るようになりましたが、浅井は、日本食に最も欠くべからざるものは漬け物なり、と言っては、自分で漬けたりしていたそうです。


パルテノン広場近くのホテル2014年
 
マラコフ通りの宿2014年
 
宿の前の通り2014