バラのすべて

戦後のバラ復興

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 日本のバラ文化は、第二次世界大戦で完全に失われてしまったかと思われました。しかし、バラ文化の復興の原動力となった人物がいました。それが鈴木省三(せいぞう)氏です。

 戦前から鈴木氏が集めてきた貴重なバラのコレクションは、鈴木夫人の手により戦災を免れました。そして、戦地から復員した鈴木氏は早くも終戦直後の昭和23年に、「新日本バラ会」、のちの「日本バラ会」を設立し、銀座で第1回バラ展を開催しました。やがて全国各地で数多くのバラ会が誕生し、各地でバラ園が造られるようになります。千葉県で最初のバラ園は昭和25年頃に、市川市国府台の式場(しきば)病院の中に造られました。院長の式場隆三郎(りゅうざぶろう)氏はのちに日本バラ会の理事長に就任し、戦後のバラ文化の発展に貢献しました。

 式場病院に続いて、昭和32年に京成電鉄が谷津遊園の中にバラ園を開園し、その中心人物となったのも鈴木省三氏でした。世田谷で「とどろきばらえん」を経営していた鈴木氏は、昭和34年に京成バラ園芸株式会社の研究所の所長として迎えられました。

 鈴木氏が育種家として作出したバラの品種は130あまりにのぼります。国際コンクールで何度も受賞し、「ミスター・ローズ」と呼ばれるほど世界に名を知られました。バラの香りや色素について大学や企業の研究者と積極的に共同研究し、数々の著書を出版し、育種家の権利を守る植物特許のために奔走するなど、鈴木省三氏のバラへの貢献は語りつくせません。

 鈴木氏と多くのバラ愛好家の力で日本のバラ文化は再びよみがえり、今や日本は、バラに恵まれたバラ大国の一つと言えるまでになりました。

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