第16章 人と自然とのかかわりの変遷



 野生動物と人間の活動と基本的に違うところは、道具を使って、生活に欠かせない衣食住の問題を、積極的に解決してきたことといえそうです。今でこそどんな山奥へいっても、電気や水道があるけれど、たまに停電があったりすると、途方にくれてしまいます。もし今、巨大地震があったら、これまでの生活のすべてが、一瞬にして崩壊してしまうことでしょう!

“自然にやさしく”のその前の時代は

 かつて自然は、恐ろしいところでした! いつもは静かな表情の自然も、時に荒れ狂って、平和な暮らしを何もかも破壊してしまうこともあります。 山の奥や、海の底には、恐ろしい化け物が住んでいると信じていたこともあったようです。長い年月を積み重ねて、人は自然にいろんな働きかけをしてきました。人間と自然とのかかわりについて、次のように説明することもできるでしょう。
  1. 最初に、クワなどの農耕のための道具の登場。草原を切り開いての作物栽培。
  2. 次に斧で代表される、森林の伐採。人も踏み込めなかった暗い森が明るくなった。食料の確保が安定した。
  3. 火を使って焼き払う、焼き畑農業など。順々に移動していく。もとの場所は、荒れ果ててしまい、二度と昔の状態にはならない場合もある。
  4. 家畜の放牧。草木を食べる。踏み固める。度が過ぎると、もう緑がなくなり砂漠状態になる!
  5. そして殺虫剤・除草剤などの農薬。人間にとって都合の悪いものは消される。長い目で見れば必要なものまでも殺してしまって、まわりまわって人間生活に跳ね返ってくることも起こってきた。
 50年程前、レーチェル・カーソンさんが“沈黙の春”という本を出版したこと、知っていましたか? 海については、この資料集のいろいろなところで紹介されているので、陸地のことも含めながら、人間と自然とのかかわりについて、いくつかのエピソートをお話していきましょう。

“緑の国勢調査”のこと

 戦後の荒れ果てた日本列島に、どのくらい自然が残っているだろうと、当時の環境庁が自然環境保全調査を実施したのは1974年でした。まだあなたたちが生まれる前のことです。
 植生、つまり植物の集団から見た日本各地がどんな状態になっているかの、初めての全国調査です。日本は山林の面積が国土の三分の一もあって、緑が豊かなことは飛行機で上空から見下ろせばすぐに納得できます。地球の砂漠化が進んでいる今、こんな国は珍しいほどなのですが・・・。
 調査では、植生自然度を10段階に分けました。@市街地・造成地3.1%、A田んぼや畑など22.7%、・・・Fミズナラなどの二次林21.0%、ブナやカシなどの林4.5%、H極相林やそれに近い自然林21.7%、I自然草原や高山植物群落など1.1%。これが全国比率です。極相林というのは、長い年月をかけて最終的に到達した森林のことです。
 この数字見てどんなこと思いますか? あれから30年たって、ずいぶん変わったことでしょう。この時、17海域についての海岸線の調査もやっています。東京湾は、自然海岸が10.5%、半自然海岸が9.5%、人工海岸がなんと80.0%でした。今はもっと減っています!

東京湾の埋め立て

 三番瀬の埋め立てが急激に進んだのはここ何十年かのことですが、東京湾での埋め立ては江戸時代にも進められていました。月島とか、鉄砲洲などという地名は、その歴史を物語っています。
 たとえば、江戸で大火があるたびに、海岸に板を打ち込んで海を仕切り、焼け跡の残骸を埋めてその上に土をかけた! いまでいえば産業廃棄物の処分です。
 かつて、行徳地域は江戸幕府にとって重要な塩田が広がっていました。しかし、長年使っていると効率が悪くなります。そこで次第に沖合いに張り出していく。使われなくなった塩田は、塩分が抜けるにしたがい畑や水田へと変わっていったわけです。

 市川市には、塩焼とか本塩などという町名があり、新田の地名も各所に残っています。干潟・浅瀬を埋め立てて陸の面積を広げる方法は、昔からあったようです。
 公害が問題だとか、自然が大切という人はいても少数派だったのでしょう。スケールの大きい自然がほしいのなら、海外旅行をすればいい、と思っていた人が大勢居たのかもしれません。気がついたら、子どもたちが自由に遊べる場所もなくなっていた、ということのようです。

雑木林は暗くなった!

 ガスや電気が普及する前の昔の農家には、家の裏に山がありました。この裏山は、子どもたちにとっても明るい散歩道であり、燃料や肥料の資源倉庫でもありました。“お爺さんは山へ柴刈りに”行かないと燃料がなかった。落葉も大事な畑の肥料でした。
 プロパンガスが出回り、化学肥料が便利に使われるようになって世の中が変わった! 外国から安い木材がたくさん入ってくる。日本の山は見向きもされなくなり、誰も来ない暗い林に変わってしまった。
 この頃から、自然に対する価値観が新しい対立の構図を呼んだようです。高度成長・所得倍増などという一連の開発思考からの反作用もあったのでしょう。
 そのままにして自然の移り変わりに任せよう、失われた森を復活させようという考えと、人手をかけて維持されてきたのが里山なのだという考え方の人たちとの、対立もありました。遠い未来を目指しながら全体を眺める、違う意見も聞きながら柔軟に考えてほしいのに、とかく日本人は二極化して考える傾向があるようです。
 放置された山に、笹や竹がはびこりだした! これは、地球温暖化と関係があるのかもしれません。日本の自然は、木がだんだん大きくなって、最後は極相林になると教科書には書いてあったのに、竹林が多くなった。ヤシの仲間は亜熱帯の植物なのに、いままでは生えなかったシュロが増えてきた! 
 雑木林は、コナラやクヌギなどの落葉樹が主役だったのに、シラカシなどの常緑樹が中心になって、冬も暗い林に感じも見られます。
 未来に向けて、雑木林にどんな方向付けが必要かが問われているのは、三番瀬と同じです。多様な価値観を尊重しながらの合意形成が期待されています。

市民活動も変わってきた

“自然観察会って何をするの?”と質問すると、“花や鳥の名前を教えてくれる”という返事がよく返ってきますが、この意識はかなり古いです! 分類の専門家になるのでなければ、名前をたくさん覚えてもあまり役には立ちません。
 日本列島は南北に長いので、生物の種類も多いのです。例えば千葉県全体で、植物は2700種ぐらい、野鳥は雌雄で色が違うものが多いけれど、約300種。昆虫は5000種ぐらいいます。これに三番瀬の貝や魚、アナジャコからプランクトンまで含めたら大変な種類数です。とても覚えきれません。
 そんなことより、三番瀬の海が東京湾から太平洋に続いていること、目に見えない生き物たちの暮らしが、海の中で何億年と続いてきたことを感じ取って欲しいのです。
 自然保護というのは、柵を作って立ち入り禁止にすることだと思っていました。ところが立ち入り禁止にしたら、元気いい種類だけが繁殖して、か弱いものは消えてしまうこともおこりました。
 原生林を保護すればいいと思っていたら、そんなところはもうこの地球上に残っていなかったのです。野生動物たちのすみかもなくなりました。それならば、各地に残された細い緑の地域をなんとかつなげて、回廊のようにするしかないだろうという意見もあります。試行錯誤を繰り返しながら、自然との付合いにも新しい対応が期待されているようです。
 専門家だけでなく、行政や企業や一次産業の生産者、一般市民もみんなつなげて、いろんな知恵と経験を持ち寄って、もっといい方法をみんなで考えよう、そんな時代になってきたようですね。
 市民活動というと、趣味的な仲よしクラブだったり、取りあえず何でも反対するけれどその先までは考えていなかった、などという時代は終わったようです。

 思いつきだけでなく、せめて5年か10年ぐらいの長い単位で楽しく続ける方法を、あなたなりのセンスで始めてみませんか。三番瀬には、楽しいことがたくさん詰まっているのですから。

(高野史郎)

参考文献
    沼田 真(1973)自然保護と生態学、共同出版
    読売新聞環境問題取材班(1975)緑と人間、築地書館 
    (財)日本自然保護協会(2001)自然かんさつから始まる自然保護2001