教室博日記 No.1786

 2020/03/15(日)

 湖底となった川廻し水田

 3月中旬の好天に恵まれた日曜日、小糸川上流の豊英湖に浮かぶ島(通称豊英島(とよふさじま))を訪れた。少しスリリングな吊り橋を渡り(写真1)、島の中に入っていくと、平坦な地形が広がっていた。そこで目にとまったのは、この島で活動している「ちば千年の森をつくる会」の方たちが作った看板で、島の地形模型がはめ込まれていた(写真2)。これを見ると、島の西側は高くなっていて、稜線が続いており、その先端は「禁断の岬」という何やら恐ろしげな名前がついている。ここは私が今日訪れたいと思っていた場所だ。

  • 写真1 豊英島のつり橋
  • 写真2 島の案内図、地形模型になっていてわかりやすい 赤矢印が禁断の岬

 そこでさっそく同行の平田和彦と一緒に「禁断の岬」を目指して歩き始めたのだが、なぜかすぐに元のところに戻ってしまった。そこで今度は島の地形をよく知っている人に案内してもらいながら、両端が崖(下は湖)になっている尾根と斜面の間を登り降りして、ようやく岬の先端にたどり着いた。そのすぐ後に、すでにヒメコマツの調査を終えた尾崎たちも合流した。そこはやせ尾根の続きといった感じで、風が吹いたら崖下に吹き飛ばされてしまいそうな危なっかしいところであった(写真3)。

  • 写真3 手前の木が生えているところが禁断の岬、対岸の崖との間は切り通しになっている
  • 写真4 対岸の崖は禁断の岬に比べ高さがある

 この禁断の岬と対岸の高い崖(写真4)との間は、現在は豊英湖の一部で、幅5mくらいの切り通しになっている。しかし近世(江戸初期)までここは曲流した川の根元がかろうじて繋がっているような全く違った地形で、「豊英島」は島ではなかった。江戸期(1700年代)に、里見倉沢という人の指導でその部分をくり抜き、人工的な短絡が行われた(君津市市史編さん委員会編,1996)。これは新田開発を目的に行われた「川廻し」で、曲流した元の流路を埋立て、そこを水田として利用していたことが、明治14年測量の迅速図から読み取れる(図1)。なおくり抜いた穴(トンネル)は、その後上部が崩れてなくなってしまい、現在のような切り通しになったのであろう。

  • 図1 豊英の川廻し地形 赤×印が、短絡した場所 黄緑は旧河道で、水田になっている 陸軍部測量局明治14年測量迅速測図「鹿野山宿」(部分)を基に作成

 さらにこの地域では、高度経済成長期の昭和44年に、すぐ下流の豊英ダムが完成し、小糸川の旧流路を含む一帯がダム湖となり、川廻し水田は湖底になってしまった(図2、写真5)。そしてこの時点で初めて、元々は曲流した小糸川に囲まれていた少し高い部分が、現在のような湖に浮かぶ島(豊英島)になったのである(ちば千年の森をつくる会, 2020)。

  • 図2 現在の地形 赤×印は短絡した部分 国土地理院1:25000地形図「坂畑」(平成28年)(部分)を元に作成
  • 写真5 対岸から見た豊英島(中央)、周囲のダム湖のところにかつて川廻し水田があった

 ここは長い時間かけて作られてきた地形が、地学的に見ると短期間で、人の手が加わった自然に大きく変化している場所であった。地形を土台に生息している動植物への影響はどうなのだろうと、いろいろ気になるところである。

  • 【参考文献】
  • ちば千年の森をつくる会(2020):豊英島の自然(増補版). 65p.
  • 君津市市史編さん委員会編(1996):君津市史 自然編. 千葉県君津市. 640p.

(八木令子)