おもな産業・交通遺跡3


土木関連施設

こやまひもん
小山樋門
[河川/1898(明治31)年/松戸市]
やなぎはらすいこう
柳原水閘
[河川/1904(明治37)年/松戸市]
明治政府は坂川の治水対策の重要性を取り上げ1898(明治31)年千葉県により坂川の逆流防止のために小山樋門を設けた。この樋門は千葉県内のアーチ水門及び煉瓦造り水門としては最も古いものであり,土木史的にも非常に価値のある構造物といえる。
明治中期の貴重な建造物として保存されている。
大水の時に,松戸市を流れる坂川へ江戸川の水が逆流するのを防ぐ目的で,1904(明治37)年に建設された4連アーチの煉瓦造の水門である。柳原水閘は煉瓦造り水門が最も盛んに建設された,明治30年代後期のもののひとつであり,規模の大きさ,デザインの優雅さ,保存状態の良さから見て,関東地方に現存する煉瓦造り水門の中で第一級のものである。
1998(平成7)年に松戸市の文化財に指定されている。  撮影:後藤 栄子

栗山浄水場排水塔
[上下水道/1937(昭和12)年/松戸市]
旧千葉県都川給水塔
[上下水道/1937(昭和12)年/千葉市]
千葉県で最も歴史の古い県営水道施設の一つである古ケ崎浄水場の付帯施設として建設されたもので1937(昭和12年)に完成している。以来60年余を経て現役である。壁面にはほとんど損傷は見られず,良好な原型を保っている。塔体は鉄筋コンクリート造である。撮影:後藤 栄子 給水塔は配水池からの配水では水圧の足りない標高の高いところへの配水のための施設である。外観は5階建ての正十二角形平面の給水塔の部分とその北側に付く長方形平面の玄関とその上の階段室の部分とからなる。様式的には,建設当時は国際的に流行になっていたアール・デコ風の建物である。撮影:後藤 栄子

ようろうがわさいひろいたはめせき
養老川西広板羽目堰
[河川/1920(大正9)年/市原市]
養老川西広板羽目堰は,夷隅郡山田村の渡辺善右衛門によって1879(明治12年)から構築の計画が進められ,幾たびかの失敗を重ねたが1885(明治18年)に原型の養老川西広板羽目堰が完成した。現在の板羽目堰に改築されたのは1920(大正9年)で,設計は当時の千葉県内務部耕地課技手桜井彦三と耕地整理組合技手立野總二であった。両氏は,堰止めにかかる各部の水圧を考慮した上で,さらにその力を利用して両岸にある1本の横桟木をはずすだけで堰中央より二方に倒れる仕組みとした。構造的発想や機能等について他に類例を見ない貴重な施設である。

三島ダム
[産業土木/1943(昭和18)年〜/君津市]
旧多古郵便局
[その他/1942(昭和17)年/多古町]
小糸川両岸の町村は,この地区を流れる小糸川の河床が低く川の水の耕地への自然流入は不可能であったため,小糸川沿岸用水改良事業を施工した。1955(昭和30)年に待望の三島ダムが完成した。その後,幹線水路の工事に着手し,1968(昭和43)年に完了。当初予定した工期は5ケ年間であったが,最終的には26ケ年の歳月を費やす結果となった。 県内第1号の郵便局として多古,大総,野尻に開業した3局のうちのひとつ,多古郵便取扱所を前身とする。当初地元の有力者平山伊之助の敷地内に取扱所が設けられたが,局舎の老朽化にともない1942(昭和17)年に現在の建物が建てられた。設計,施行は地元大工高木某による。木造モルタル仕上げ,総2階建の建物で寄せ棟屋根に瓦が葺かれ,地域の郵便局に相応しい開放的な造りとなっている。また,正面入口脇には郵便局のマークと桜をあしらった特注の陶板が掲げられ建物の存在をアピールしている。撮影:石井 正義

こうふう____
興風会館
[その他/1929(昭和4)年/野田市 ]
約三百年余りにわたり野田における醤油の醸造に携わってきた茂木,高梨両家の一族が,キッコーマンのこれまでの発展は地域社会の援助によるものであり,会社はこれに報いなければならないとの趣旨のもと,1928(昭和3年)に設立したのが興風会である。そして,社会奉仕活動の援助の一環として,翌年興風会館が建設された。会館では講演会を始め,展覧会,映画会,相談会等も開催され,まさに地域に密着した施設として親しまれてきた。ロマネスク風アーチからなるゆったりとした玄関部はじめ全体として威圧的にならない構成にまとめあげた。設計は大森実,施行は戸田組。2階講堂の空間構成や,階段廻りの意匠など建築的には見るものがある。撮影:中村 和二

多田屋本社社屋
[その他/明治末期/東金市]
旧鉄道第2連隊表門
[その他/大正期(昭和7年以前)年/習志野市]
明治末期頃と伝える旧東金税務署の建物。税務署移転に伴い,1973(昭和48)年から社屋として使われてきた。コの字形平面で外壁下見板張になる洋風建築であるが,テラス状の正面2階中央と三角形の屋根窓が対称性を強調し,端正な意匠となっている。撮影:小野 吉彦 1910(明治43)年移駐の陸軍鉄道連隊第三大隊「1918(大正7)年鉄道第二連隊に改組」の表門。鉄道連隊関係施設で現存する数少ないもののひとつで,煉瓦造りの4本の門柱が残る。土地の歴史を知る上で貴重な建造物で,現在は「千葉工大の煉瓦門」の愛称で広く親しまれている。

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