明治11年(1878)のフォンタネージ帰国後、後任の教師を不満として退学した浅井忠は、小山正太郎、松岡寿らと共に「十一会」を組織し、洋画排斥運動が高まる中で洋画研究を続けました。
さらに、翌12年(1979)には、日本初の本格的洋画団体として「明治美術会」を結成し、その中心人物として活躍しました。明治美術会展に出品された「春畝」(重要文化財)や「収穫」(重要文化財)、「漁婦」のように、農民や漁師を主題に重厚な作風を築き上げました。
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「沢入駅」
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「渓流」
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「曳舟通り」
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「鎌倉建長寺(2)」
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「多摩」
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「房州白浜」
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