■ 図案活動への関心
11月5日、博覧会が終了しました。この頃浅井は、所属していた東京美術学校の校長である正木直彦(まさきなおひこ/美術行政官)を訪ねました。正木の紹介で中沢岩太(なかざわいわた/応用科学者、京都帝大理工科大学初代学長)を知り、京都で美術工芸の教授職に就く約束をしました。
つまり4月にパリに到着して、7ヶ月後の11月頃には、東京での洋画教授の職を辞して、京都で美術工芸を指導する約束をしたことになります。浅井は若き日に、工部美術学校でフォンタネージから洋画指導を受け、以降、洋画の習得と発展に尽くしてきました。東京美術学校西洋画科教授となり、文部省の命で留学してパリに居た経歴を振り返るとき、この転身は不可解に思えます。
しかしながら、パリでの生活は、博覧会を軸に洗練された文化に接し、大勢の人や沢山の出来事、優れた美術作品鑑賞の機会に恵まれたものでした。この経験は、後にグレー=シュル=ロワンでの数々の秀作や、帰国後、京都での図案を中心とする多方面での活動として実を結びます。パリで浅井忠は、大変充実した日々を過ごしたと言えるでしょう。
≪中沢岩太≫1903年 【千葉県立美術館蔵】 |
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