2 鎌鍛冶の発達
江戸時代以降の鎌には刃鎌と鋸鎌の分類がありますが、ここでは刃鎌の生産地と千葉県内の地鎌(使用地周辺の鍛冶屋が打った鎌)を解説します。
(1)江戸時代の鎌の産地
鎌は江戸時代になると、より軽く鋭利なものを求めて片刃の鎌が考案されます。この発明が鎌の形態に大きな変化をもたらし、東日本ではほとんどが片刃鎌となるのに対し、西日本では両刃の鎌が広く使われます。そのような情勢の中で、全国各地で土地柄に合った形の鎌が発達し、余剰生産が可能であった越前や越後、信州などで鎌の産地化が進んでいきます。江戸時代の後期には、物流環境の発展に伴い、行商や問屋を介して全国的な流通経路が整うことで鎌の産地が定着し、明治に入ると需要に応えて安定供給ができる大量生産が可能な産地が生き残っていくこととなります。
図9 江戸〜明治初期の鎌産地の地図/「日本鎌の研究拾遺抄」盛岡高松、中村忠次郎の図と『日本鎌に関する研究』所収の分布図より作成
(2)房総にやってきた産地鎌
【越後鎌】
裏 表
源流は三条・燕周辺の釘鍛冶といわれ、冬場の農閑期稼ぎとして鍛冶が地域に浸透していき、幅の広いのが特徴的な「越後鎌」の製造が三条北部の中ノ口流域で盛んに行われるようになりました。また、この地域には文化年間(1804〜1818)に薄田周平という人物がこの地に移住し鍛冶を始めたことが始祖であるとする伝承が残されています。
越後鎌は、三条の商人が行商によって各地を回ることで普及し、特に関東地方を商圏として、佐原や佐倉にもやってきたと言われています。
【信州鎌】
裏 表
長野県北部の野尻湖周辺から黒姫山の東側、北国街道沿いの宿場などが産地として知られています。ここは、@松炭の入手が容易であったこと、A山からの伏流水や酸性の水が焼き入れに適していたこと、B多雪寒冷地が火を使う鍛冶に向いていたこと、C北国街道が直江津からの鉄材輸送経路として利用できたこと、などこの地が鎌産地に育つ要因が揃っていたと言われています。
信州鎌の元祖は江戸時代後期に活躍した柏原の久保仙右衛門(専右衛門とも書く)と古間の荒井津右衛門といわれ、久保はこれまでの鎌に改良を加えて「芝付(シバツケ)」を考案し、荒井は両刃だった鎌を薄い片刃に改良したとされています。
信州鎌は北国街道を利用して善光寺でも販売され、明治21年に開通した信越線を利用して販路を拡大、全国の鎌型を製造し、明治30年代後半には千葉県をはじめ関東・東北・中部・北陸・山陰・北海道に至る流通範囲の拡大を遂げています。
千葉県の地鎌
県内での鎌の生産は「千葉県統計書」に実態を見ることができます。明治30年から大正10年までの郡別鎌製造数を見ると、特に多く生産されている地域は君津郡、安房郡であり、印旛郡、香取郡がそれに次いでいます。また、鎌はそれぞれの地域で特徴的な形を生み出し、君津郡は久留里鎌、安房郡は房州鎌、香取郡は佐原鎌としてよく知られています。
現在県内では、鎌の製造工場はなく、野鍛冶が注文に応じて作っている程度です。君津市の鈴木啓支は親の代までは房州鎌生産を行っていましたが、啓支の代では鎌の需要はほとんどなく、専ら鍬の製造に力を注いでいます。
また、館山市の高梨欣也(昭和11年生まれ)は現在数少ない飛雀型の房州鎌を打つ鍛冶屋です。欣也は、昭和32年に正木の高梨富太(明治27年生まれで、飛雀印鎌の佐藤政治に弟子入りし、館山の正木で独立しました)と養子縁組を結び高梨鍛冶屋を継ぎます。彼はここで飛雀の鎌を学び、以来飛雀一門の鎌鍛冶として看板を掲げています。
【久留里鎌】
久留里鎌は千葉県中央部君津郡久留里を中心に作られた、県内で唯一江戸時代から全国に名の知れた鎌です。その形状は、片刃で刃裏に溝がなく嶺が厚いこと、刃元でコミとの境に段を作り、草などを根元から短く刈るために勾配を付けていることが特徴です。この鎌は荒れた土地向きであったことから、地元でも販売しましたが、下総地方の開拓に携わった人たちの需要が多く、農閑期に売り子が行商に出向いていったといいます。
久留里鎌の元祖は君津市久留里市場上町の太田平吉と考えられています。平吉は弘化2年(1845)に22歳で太田家の養子となり、鍛冶屋を営み40年間、久留里鎌を作りました。彼は研究熱心で、上総や下総での市場調査を基に、刈り取った草が鎌にのってくるように、刃元とコミの間の段差を考案したと言われています。また、平吉は多くの弟子を採り、久留里鎌の技術を後世に伝えています。
太田平吉の弟子のひとりに石井リュウジがいますが、彼は明治35年頃に太田に弟子入りし、上町で鍛冶屋を開き、子の信量、孫の隆まで3代に渡って鎌鍛冶を操業し続けました。そして、孫の隆が廃業したのは昭和61年でした。
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【房州鎌】
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房州鎌の中でも販路を伸ばしたのが、鴨川市曽呂村周辺で製造されていた「飛雀(トビスズメ)印鎌」という商標の鎌です。鎌の裏側に6羽の雀が刻印されていることから、通称「ロッパスズメ」とも呼ばれていました。鎌刃の嶺の裏をへこませ、表にコバ入れを施し、刃全体の薄さを補強するように工夫されています。鎌全体が軽く、刃も鋭利で刃もちも良いことなどが有名となり、現在でもこの型が房州型として全国の鎌産地で作られています。
飛雀印鎌の発祥は曽呂村仲の佐藤政治(1864〜1946)です。佐藤は花房藩(現鴨川市)の抱え刀工鉄水子国輝(てっすいしくにてる)に弟子入りし12年間修行後に鉄水子国輝の号を授かりますが、廃刀令の影響で刀剣の需要がなくなってしまったことから、農具製造を始めます。佐藤は久留里鎌に改良を加え、独自の鎌を考案します。そして、明治23年(1890)に故郷の曽呂村中居(現鴨川市仲町)で「飛雀印鎌」の製造を始めました。佐藤は多い時で60人余りの弟子を抱え、この鎌を県内各地に販売していました。佐藤の弟子たちは昭和14年に「房州鎌小組合」を結成、昭和25年には「房州鎌工業協同組合」と改名、その後、「飛雀印鎌製作所」と改めて操業を続けましたが、この工場も平成4年に惜しまれつつも、佐藤政治の操業から100年の歴史に幕を閉じました。
【佐原鎌】
佐原鎌は明治中期に久留里鎌の職人が現在の香取市多田に移住して鎌製造を開始したことに始まります。弟子入りした佐原の根本吉之助(明治5年ごろの生まれ)が、久留里鎌の型に佐原周辺の土地柄を考慮した工夫を加え、優れた鎌に仕上げたことから、佐原鎌の名称を師匠に許されたと言われています。
特徴は、刃裏には溝がなく、表面の刃先から嶺にかけて反りを強くし、刃先に行くに従い刃厚が薄くなります。研ぐ時は、刃先と嶺が砥石に当たるようになっていて、使用後の研ぎを重ねるごとに刃部の中ほどが減って湾曲が強まり、形状が変化することで、春の柔らかい草刈りから秋の稲刈りまで、時間の経過とともに対象に合った使いやすさが増すと言われています。
最盛期は明治42年で、県内で最も製造数が多く、香取郡は37,000挺にのぼります。
製造者は、明治から大正期にかけて佐原の根本鍛冶と酒井鍛冶、大根の宮本鍛冶の3軒で、昭和に入ると佐原の飯島鍛冶が加わり、4軒で担っていました。
中でも飯島豊治は佐原鎌の製造方法にこだわり、地鉄の極軟鋼に玉鋼や黄紙(ヤスキハガネ)を鍛接する際に泥沸かしという手法をとり続けました。泥沸かしとは、地鉄と鋼のまわりに赤土の泥を塗り、溶けるほんの手前まで火床で熱して鍛接する方法です。この手法で鍛接した製品は接着剤を使用して地鉄と鋼を鍛接したものに比べ研ぎやすくなるという利点があったようです。
佐原鎌職人の系図
久留里鎌職人
香取市多田にて始業
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酒井栄助 宮本亀太郎 根本吉之助
(明治19年生) (文久年間生) (明治5.6年頃生)
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飯島豊治 酒井喜太郎 宮本寅吉 根本吉太郎
(明治42年生) (大正元年生) (明治30年代生) (明治30年生)
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飯島昇一 宮本勝治 根本和雄 根本満夫
(昭和5年生) (昭和3年生) (昭和16年生) (昭和10年生)