流山市上貝塚遺跡


竪穴住居跡は9軒の検出で、いずれも後期に属しています。住居軒数は少ないものの、比較的良好な土器が出土した竪穴住居跡も含まれています。出土した土器は、市川市鬼高遺跡から発見された土器をもって「鬼高式土器」と呼ばれるもので、この集落が形成された時期は、6世紀前半から7世紀中頃までの100年以上もの間で、数軒単位で継続的に小規模な集落が営まれたいたと思われます。

古墳時代後期になると、縄文時代以降、床面中央付近に設けられてきた炉に代わって、壁を掘り込んで造り付けた「カマド」が厨房施設として採用されるようになります。このことにより、住居中央に広い空間が確保でき、作業場などとして有効利用できるようになりました。また、縄文時代以降の素焼きの土器のほか、窯を使って高温で焼かれた「須恵器」が現れるようになります。カマドも須恵器も朝鮮半島を起源とするもので、生活上の大きな変化があった時期ともいえます。