町並みの施設


道幅と町の施設

道幅は4間(7.2m)で、佐原のメインストリートである銚子街道とほぼ同じになっています。町の施設としては、例えば佐原では町の取り締まりの施設としての木戸や番屋・高札場、防火対策の施設としての火の見・火の見番小屋・火消道具置場、上下水設備として井戸・圦樋・用水などがありました。特に近世の町は大火になることが多かったことから、防火施設は欠かせないものであり、また、各所に天水桶や手桶などの防火用水が用意されていました。房総のむらでも火除け地(辻広場)や火の見、天水桶などの再現を行っています。

大八車

 町並みに2台配置されている大八車は、明暦3年(1657)の大火後、普請のための荷車の需要が多くなり、江戸木挽町の牛車大工が人力で曳く荷車を工夫し作成したのが始まりだといわれています。その名称については、牛車大工の名が八左衛門であったことから、大工の八で大八となったという説、人8人の代わりをするので代八といわれ、それが大八となったという説、車台の長さが8尺で幅2尺5寸、車輪の径が3尺5寸という規模であったことから、その車台の長さからきた名称だという説などがあります。車台の長さが1丈、9尺、7尺、6尺のものを大十、大九、大七、大六車と呼んでいるため、本来の名称は車台の長さに由来し、しかも大八車が最も多く使用される規格だったために、全体の代名詞となったのではないか、という説が現在のところ最も有力なようです。江戸に始まった大八車は、次第に他の城下町や在町、農村にも普及して、年貢米や材木の積み出し、商品の運搬などに使用されました。

稲荷と地蔵

 稲荷と地蔵は、あまたある神仏の中でもなじみ深いものだと思います。稲荷は町場で商売繁盛、町内安全、家内安全などに御利益があるといわれ、商人の守護神としての性格をもっていました。特に稲荷の祭りである初午は、子供たちにとっては小屋をかけ、太鼓を叩いたり歌をうたって騒ぐ楽しい行事でした。また、「初午が早い年は火事が多い」という言い伝えや、初午の日は火を呼ばないよう湯や風呂を沸かさなという習慣があり、初午と火事の関係は深いものです。
 地蔵は、子供の神様として、特に婦人の信仰が篤く、医療の発達する以前は、子供が無事に生まれるよう、丈夫に育つようにとお参りする人が絶えませんでした。