本・瓦版の店「葛飾堂」


 江戸時代の本屋は、書林、書肆、書物屋(学術書を主に扱う店)、草紙屋(娯楽的なものを扱う店)などと呼ばれていました。当時本屋では、本の製作を含む出版から販売までを行っており、販売品目は、書籍のほか、浮世絵、多色摺りの双六やかるた、宣伝用に配った引き札、暦、瓦版などでした 。


屋号  下総国葛飾郡(現市川市付近)は、陸上交通、水上交通の要所であり、江戸との交流が盛んなため多くの商品が流通しました。当然ながら、本、瓦版などの出版物も例にもれることはありませんでした。出版物の流通の拠点であった葛飾郡から「葛飾堂」としました。

建物の特徴  切妻瓦葺屋根、間口3間半、奥行き3間の2階建て土蔵造り。両脇の外装は、黒漆喰仕立て。本屋らしい雰囲気が感じられるような設計にしてあります。具体的なモデルとなった建物はありません。

店先の展示  箱看板  江戸の町中で多く見られ、人目のつきやすい路上に置きました。 店名と、本屋の呼び名の一つである「書林」を交互に書いてあります。
         板看板  本来は軒に下げましたが、建物の都合で柱に下げています。  当本屋で販売している書物の宣伝用看板で、房総地方にゆかりのある道中記『成田名所図会』と書いてあります。
         軒のれん  藍染に店名「葛飾」と白く染め抜いてあります。
         蔀戸  揚戸、上げ下げ戸とも言われます。雨戸として使用します。
         つり下げ展示  販売をしている浮世絵の見本を天井から紐でつり下げています。
         作業台  江戸時代の本屋の店先にあったかどうか不明です。演目用として配置しています。
         置棚  本屋で製作した本を販売するための棚です。
         見世棚  浮世絵などの販売品をお客様に見えるように置く棚です。
         箱階段  各段の下に、引き出しなどをつけた収納階段です。


本・瓦版の店一口メモ

江戸時代の本屋  名称は、本屋で扱う出版物によって異なり、儒教書・仏教経典・医学書など、堅い内容の学術書を扱う本屋を「書物屋」といい、浄瑠璃・浮世絵などの娯楽的なものを扱う本屋を「草紙屋」(絵草紙屋、または地本問屋)といいました。葛飾堂は「書林」ですが、とくに扱う本を限定していないので、書物屋とも草紙屋とも言えません。
 江戸時代は、出版物の販売のみを行う本屋もあったようですが、多くは出版から販売までを行っていました。このことは、この時代の本屋の特色でもあります。本を作る工程は何段階もありますが、各工程はその専門の職人が携わっていました。また、貸本屋もありました。
 当時の本屋も現在と同じように、版権の問題が絶えませんでした。そのため、本屋どうしで仲間(組合)を作り、その紛争に対処しました。また、江戸幕府も本屋仲間を公認する一方で、出版条目を発令し、出版の取り締まりを行いました。文化14年(1817)には、江戸に63名の本屋がありました。
 当時の本屋で扱っていたものには、いわゆる書籍(内容、表紙の色などにより種々に分類)、浮世絵などのほか、多色刷りの技術を活かした子供の遊び用のおもちゃ絵(双六(すごろく)、かるたなど)、商品や店の宣伝用に配った引き札、暦、瓦版などがありました。
 瓦版は、仇討・火事・地震といったような事件を、木版一枚に摺り上げたもののことをいいます。木版摺りをなぜ「瓦版」というかについては、はっきりしませんが、瓦を焼く土を固めたもので版を作った(土版木)ことからとされています。安政2年(1855)に起った大地震の後に多量に作られた瓦版は、地震の原因とされた鯰や、鯰と鹿島信仰をかけたものが描かれ、特に「鯰絵」(なまずえ)と呼ばれました。
 房総地方における江戸時代からの本屋は、大和博幸氏の研究によると、創業文政11年(1828)、ないし12年といわれる、佐原の正文堂、江戸時代後期創業の多田屋があります。そのほか、創業年は不詳ですが、他の書籍の奥書、目録などから、安房国に2軒、上総国に多田屋以外に2軒、下総国に正文堂以外に5軒の本屋が知られています。本の内容を見ると、往来物、俳書、地誌、天文書、漢学書などを出版していたとのことです(「地方書肆の基礎的考察」『近世地方出版の研究』1994)

明治時代の本屋の生活  明治5年(1872)の学制により、全国各地に学校が作られるようになると、それに伴い教科書を販売する本屋が現れます。千葉県の場合、明治になって教科書の販売を始めたところは、地元の名士や、もともと雑貨商や小間物屋であった場合が多く、教科書販売を始めても、これらの商売を引き続き行っていました。
 明治36年(1883)に国定教科書制度が定められると、教科書販売のルートが確定していきます。教科書特約販売所が、教科書販売の仲介をするシステムへと変わっていきます。そのため、教科書販売店(教科書取次販売所)は、教科書を販売してもよい学校が限定されるようになりました。
 教科書販売ということもあり、忙しいのは新学期前の2、3月頃です。教科書販売の決算が7月末日のため、2月、8月が暇になるようなことはありませんでした。第二次世界大戦後は、学校へ教科書を売りに行ったようです。

 明治時代から昭和時代にかけての本屋の24時間を紹介します。
 朝は、学校に通う生徒が店の前を通るまでに、店を開けなければなりません。その後、店長は外回り(外売り)に出かけます。9時ころになると、最寄駅に書籍、雑誌が列車で運ばれてくるので、手の空いたものがリヤカー、自転車などで取りに行きました。反対に、荷出しも行います。小僧は、近くの学校へ学用品などを配達に行かねばなりませんでした。そのあいだは、店番を行い、店長が外売りから戻った(18時から20時半頃)後、21時ころ閉店となったようです。


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