川魚の店「かとりや」


 江戸時代、千葉県内では川魚を地元で売るのではなく、江戸へ卸すことが多かったといわれ、現在の香取市佐原や、印旛沼・手賀沼周辺などでは、周辺で捕れた川魚を江戸に送る問屋や多くの仲買商が商いをしていました。 明治以降になると鉄道の発達などに伴い、それまでの販路が大きく変わったこともあり、多くの店が川魚の卸しだけではなく、それらを佃煮などに加工して販売するようになったといわれています。


屋号   利根川や印旛沼など、豊富な水辺とそこに生息する水辺の生き物たちを生活に取り入れた暮らしをイメージし、香取郡に由来して「かとりや」としました。

建物の特徴  寄せ棟瓦葺屋根、間口2間、奥行き3間の木造平家造りで壁は板張り。川魚の仲買と加工を合わせて行った店のイメージを再現していますが、具体的なモデルとなった建物はありません。

店先の展示  池担桶 水をはって生きた鯉などを入れ、売り歩く時に用いました。
         ウナギザル  ウナギをいれたかごを5段組み上げて一番上にフタをのせ、縄でしばります。その上に氷をのせたり水をかけたりしながら、遠くは江戸(東京)までうなぎを運搬しました。
         ズ  魚を捕る仕掛けです。中にミミズなどをいれウナギなどを誘い込みます。一度入ったら魚は出られないようになっています。ウケ・ドウなどともよばれています。


川魚の店一口メモ

魚屋の商い  千葉県内では、いわゆる専業の魚屋というものが現在までに伝わってきていません。また、老舗といわれる川魚屋のほとんどは、江戸時代に(川)魚の仲買を主としており、鰻の蒲焼や小魚の佃煮などを販売するようになるのは、明治時代以降のことでした。「かとりや」においても、その店先は主として川魚の仲買を行い、そして後から「鰻の蒲焼」「すずめ焼き」などを合せて営んだ店先であるといってもよいかもしれません。利根川流域には、銚子漁港に水揚げされた魚を扱い、輸送を取り扱う問屋が、また、佐原・印旛沼周辺・手賀沼周辺には、これらの地元で捕れた魚類(主に鰻)を大消費地である江戸へ送り込み、その台所を支えた多くの問屋・仲買(魚屋)が存在しました。
 また、利根川沿い、特に木下、布佐あたりは、銚子で水揚げされた鮮魚類を江戸まで運ぶ問屋・仲買商が多くみられ、場所によっては「鮮魚街道」(なまかいどう)と呼ばれたくらい、その利用度は高いものでした。送り方は、もちの悪い魚は腸を抜き篭詰めにして、または、活き締めにして送ります。5月から7月は、関宿回りで生舟(生簀仕立ての舟)で、それ以外の季節は、なま船(猪牙舟(ちょきぶね))で、夕刻に銚子を出発して、明け方に木下あるいは布佐の河岸に着き、木下から行徳へ、布佐から松戸へ陸路で送られ、そこで再び舟に乗せ替えて日本橋の市場へと送られていきました。またこれらとは別に、安食・布鎌から行徳ルートへ続く抜け道もあったようです。ちなみに、所要時間は文化2年(1805)に松戸と銚子の業者間の契約を見ると、最も遅れた場合でも銚子を出発してから3日目の午前2時頃までに魚市場に着くようになっています。
   初日   夕刻    銚子発
   2日目  早朝    布佐着
         昼まで   松戸着
         夕刻~夜 日本橋着
  (3日目  早朝    市場が開く前に着)
 東京湾沿いでは、木更津から江戸までの直行便が定期的に出ていたこともあり、それぞれの仲買に集荷され次第、送り込まれていました。そして、小売りはこれらの仲買から仕入れて振り売りで売るということになります。小売り専門の店というものがどういうものであったのか確定できません。ただ、一般的に小売りは、これらの問屋から魚を仕入れて売り歩く形が中心であったと考えられ、大正時代くらいまでは、それぞれの店に出入りの人間が決まっていて、朝仕入れて売り歩いたものと思われます。
 現在でも古いといわれる魚屋(小売商)の中には、いつのころからか、振り売りで商売を始め、店を持つようになった例が知られています。そのほかに、立地の良い所にあった店などは、仲買・問屋業のかたわら、魚料理の仕出しを始めるところも出てきます。(木下、松戸など)近郷近在で婚礼・葬式・寄合など、人数の集まる時に、料理・料理人を含めて出張料理をするのです。また、店によっては、取扱品目の中から店で直接販売を行う店も出てきました。
 現在に残る古い川魚料理の店の多くは、江戸時代から明治時代にかけて魚の仲買を行っていたと言われています。明治時代に入り、交通網の変化、特に鉄道の開通以降、従来の経路での魚の流通の大きな変化に伴い、仲買・(流通)問屋としての商売が成り立たなくなっていく中で、今までは従であった「仕出し」料理や「店売り」を主に切り替えていったものと考えられます。
 また、川魚を扱う印旛沼・手賀沼・利根川周辺の仲買・問屋は、鉄道経路の整備とともに、引き続き現在までその生業を継続する店も多くありますが、時代とともに代替わり・廃業・転業した店も数多くありました。

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