そば屋「いんば」


  町人文化が花開いた江戸時代中期、江戸には多くのそば屋が店を構えました。その数は増え続け、江戸時代末の万延元年(1860)には、江戸のそば屋は3,763店にのぼったといわれています。江戸に隣り合う房総地方にとっても、江戸の影響は大きく、そば屋も例外ではありませんでした。江戸時代中期から後期に商業地や城下町などに店が開かれていますが、その数は町場に1~2軒というものだったようです。


屋号   めし屋とともに商家で最初に建設されたそば屋に、地元印旛郡から「いんば」の名をつけました。

建物の特徴  切妻瓦葺屋根、間口3間半、奥行3間の木造2階建て。具体的なモデルとなった建物はありません。店内はざるそばやとろろそばを食べることができる食堂になっており、店内の見学はできません。

店先の展示  絵馬状看板 白い布は、麺の形を現しています。
         箱看板 店名の「いんば」と「千客万来」などの文字が書かれています。
         縄のれん 布ののれんと同様、江戸時代に用いられた縄のれんを展示しています。 


そば屋一口メモ

そば屋の商い

材料の調達
 そば粉・小麦粉
  房総では、ソバや小麦がとれたので、それを各店で購入し、自家製粉をするそば屋がほとんどでした。繁盛する店では、専門の粉挽き職人を雇っていたほどで、粉を挽く作業は根気のいる仕事でした。
 店では専用の粉挽き場をもっており、石臼で挽いていました。

かつお節  そばつゆに使う出汁は、房総ではかつお節から取るのが一般的です。これは江戸のそばと同じです。
 佐原の老舗のそば屋では日本橋から、佐倉の老舗のそば屋では房州勝浦から仕入れていました。
 かつお節は、幅1尺もある大きな「かつお節けずり」で荒く削ります。風味を損なわないように、翌日に使う分だけを削ります。たいへん力のいる仕事で、手の空いた若い衆が汗をかきながらやっていました。

醤油  昔は、町に何軒かの醤油屋が必ずありました。地元の店から一斗樽などで大量に購入しました。

そば屋の生活
そば屋の一日
  そば屋では、朝早く起きてそばを打ち、つゆを作ります。つゆは、「かえし」といって、醤油、みりん、砂糖を各店の秘伝の分量で煮詰めておいたものに、朝とった出汁を加えて作ります。出汁を煮出すには2時間かかりました。職人は、そのあいだにそばやうどんを作ります。
 漆塗りの大きなこね鉢に粉を入れ、水を入れてこねます。こねあがると打粉をし、麺棒で伸ばしていきます。伸ばし終わるときれいにたたみ、大きな包丁で切っていきます。
 出来上がった麺は、生舟と呼ばれる木の箱に入れておき、注文が来るとそこから出して茹でました。
 江戸時代の終わり頃からの一般的な品書きは、「もり」「かけ」「おかめ」「花まき」などでした。
 昼は、客がとだえるまで働き、夜は早めに店を閉めます。昔は、今のように灯りも明るくなく、朝も早いので、夜は早々と店を切り上げたのです。

一年を通じて  そばは、縁起の良い食べ物として、晦日や、引っ越しの時に食べられることが多かったのです。とりわけ、大晦日は普段の何倍もの注文が来るため、一年を通じて最も忙しい日でした。
 また、そば屋では、そばと一緒に酒を出す店も多く、そば屋は社交場の役割も果たしていました。

そば屋の広告活動  多くのそば屋ができると、競争も激しくなります。そば屋はきそって店独自の品書きや宣伝を考えました。
 佐原のそば屋では、天明年間(1780年代)に様々な変わりそばを作り、秘伝書に残しています。変わりそばは、1750年頃、粉を挽く技術が発達し、更級粉(そばの実の中心部分だけを取り出した粉。色が白く、でんぷん質であるため、さらさらしている)を挽くことができるようになりました。色の白い更級粉に、きれいな色の食べ物を混ぜ、黄色や緑、桃色などの色を付けるそばが変わりそばです。この変わりそばの出現で、そばはただ食べるだけのものではなく、目で楽しむこともできるものになっていきます。
 こうした店独自の様々な試みは、品書きだけでなく、引き札などでの宣伝活動にも及びます。房総のそば屋では、店独自の引き札を作って配ったり、派手な看板を作ったりと様々な広告活動を行いました。


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