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 機械力が入る以前、物は人の手で手作りされていました。そのような社会では、商品の市場も狭く、 商品を買う人が生産者、販売者を知っていることが多かったと考えられます。そこでは、商品を買った人の値段、品質についての声が直接、職人へ伝わったことでしょう。その要求に答えられるかどうかで商品の販売数に影響が出るのです。つまり、職人は常に、価格引き下げ、品質上昇への努力と顧客の多様な要求に応えられる技術応用力が必要とされていたのです。
 また、技術が必要とされる点として、木、竹、紙、鉄、土などの材料が均質でないことがあげられます。材料が均質であれば、同じ方法で同じ物を作ることができます。しかし、均質でない材料から同じ品質の物を作る場合は、材料の選別、乾燥、加工の仕方など様々な技術が必要となってくるのです。
 さらに、職人が多くの儲けを出すには、原料の無駄を出さない、最小限の原料使用で商品を完成させる、道具を壊さず、長期間使用に耐えうる方法で生産を行う、品質の高いものを、早く生産する技術、道具を考案するなどの、原材料、道具についての知識、工夫をすることも必要だったのです。

 

木はわたしたちの身近に大量にあり、加工が容易なことから、古代より様々な物の材料として使用されてきました。道具も、用途に応じて多用な物が考案されてきました。「伐(き)る」「挽(ひ)く」道具としての「鋸(のこぎり)」、「伐(き)る」「割る」道具としての「斧(おの)」「鉈(なた)」、「削(けず)る」道具としての「鉋(かんな)」、「刳(えぐ)る」「穿(うが)つ」道具としての「鑿(のみ)」「錐(きり)」などがあげられます。
 道具を使用するには木の特徴を知らなくてはなりません。たとえば丸太を割るには、木の長さ、堅さ、裂ける方向などを十分考慮して、斧、鉈、楔(くさび)などの道具を使い分ける必要があります
 

木を使って、建物、船、荷車、家具などを作る職人を「大工」と呼びます。木の種類、量が豊かな日本では古くから「木」が衣食住の様々なところに使用されていました。そのような中から、様々な加工技術、道具が考案されてきました。
大工の道具には使用法によって様々なものがあります。

木を伐(き)る −鋸(のこぎり)、斧(おの)、鉈(なた)など
木を割る    −斧(おの)、鉈(なた)など
木をはつる  −ちょうななど
木を削る    −鉋(かんな)など
木を穿(うが)つ−鑿(のみ)、錐(きり)など

これらの道具はさらに細かく分かれ、たとえば斧であれば、伐採用の「ヨキ」、伐採、はつりに使用する「マサカリ」、小型で片手で使用する「テオノ」に分かれます。
 木の特徴を知っていることも必要なことです。木の種類、特徴に始まり、木の生育場所、曲り具合など、様々な要素を考え使用する場所などを決めていくのです。


ちょうなで木をはつる 鑿でホゾを彫る
複雑な継ぎ手 継ぎ手

 「ようじ」は、歯を掃除する道具として日本に伝わり、江戸時代には、先端をつぶし房にして歯を磨くのに使った「総ようじ」、茶菓子などを取るのに使った「平ようじ」、歯の間のかすなどを取るのに使った「小ようじ」など、様々なものがありました。現在、ようじと言われているものは「小ようじ」のことです。高級なものは「黒文字」の木で作られますが、「小ようじ」より太く、黒文字の皮を残して、草の穂のように作ったものは「穂」ようじ」とも呼ばれます。現在でも、職人が手作りでいろいろな形のものを作っています。
楊枝を削る いろいろな楊枝

薄く削った檜(ひのき)の板(これを片木板(へぎいた)といいます)を曲げて筒型にし、底を板でふさいだものを「曲物(まげもの)」といい、古代から生活用具として広く用いられていました。
 作り方は、檜の板を薄く削り、曲げる場所には縦の切れ目を入れて曲げやすくします。重ね合わせの部分には、縦の切れ目を入れ、樺皮、山桜の皮で綴っていきます。底板は樺皮でとめる方法と、木釘で留める方法があります。
桶には「曲物(まげもの)桶」と「結(ゆい)桶」とがあります。「曲物桶」は薄く割った片木(へぎ)を円筒形に巻、合わせ目を樺皮、桜皮などで縫い合わせ、底をつけたもので、中世頃までは、液体やその他のもの入れとして普及していました。結桶は、鉈で割った長方形の側板を円筒形に並べ、竹の「たが」で締めたものです。鎌倉時代頃から作られ始め、室町期には広く普及していきました。桶は、現在のような、、ガラス、プラスチックなどがない時代には、多くの液体を入れておくには欠かせない道具でした。製作には、できあがったとき丸くなるように削る技術、水が漏れないように削り、組み合わせる技術など高度な技術が必要です。側板の丸みを出して削るには、刃が曲線になった鉈や銑(せん)と呼ばれる道具や、底が丸い鉋など、独特の道具が必要でした。
 樽は、初め酒などの液体を注ぐための道具で、鎌倉時代頃には木をくりぬいて、胴に注ぎ口をつけた「太鼓樽」が使われていました。鎌倉時代末に、結桶に蓋をつけた「結樽」が使われるようになりました。密閉性の高い結樽は液体の輸送道具となり、酒、醤油、酢、味噌、油、漆、柿渋などが樽に詰められ大量に輸送されました。空樽も再利用され、江戸には空樽問屋が多くあったほどでした。
銑で樽の上を削るを削る ガワイタを切る

浮世絵は、非常に細密な絵を、木版の多色摺によって印刷する技術です。そのため、非常に高度な技術が必要とされます。浮世絵を彫る版木は、山桜の木を板屋が表面をなめらかに鉋で削ります。これを彫師が彫るのですが、まず「小刀」を残す部分の周囲に入れ、その周囲を僅かに残し「丸鑿(まるのみ)」で削っていきます。次に、いらない部分を平鑿で削り取り、最後に、「相透(あいすき)」で小刀を入れた下の部分を切り取っていきます
版木彫師の使う鑿−左から「小刀(こがたな)」「相透(あいすき)(小)」「相透(あいすき)(大)」「丸鑿(のみ)(小)」「丸鑿(のみ)(大)」「平鑿(ひらのみ)(小)」「平鑿(ひらのみ)(大)」
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竹、笹は世界に広く分布しており、46属1250種もの種類があり、日本では14属600種余りが見られます。(佐藤庄頃柄五郎『図説 竹工芸 竹から工芸品まで』)竹の特徴として、中空で軽く、弾力性があり強く、しかも、割ったり、剥いだりする加工がしやすいことなどがあげられます。また、成長が早いことなどから、幅広い用途で使用されてきました。
 竹を加工するときは、「竹ごしらえ」の作業がまず必要です。汚れを落とした後、火にさらすか、苛性ソーダの溶液などで煮て油抜きをします。その後、日晒しをして、「竹ごしらえ」は完成します。
主な竹の種類と特徴
特      徴

マダケ マダケ(真竹) 直径が5〜13p、高さが10〜15m。
皮に黒褐色の斑点があり弾力に富みます。割ったり、剥いだり、曲げたりする加工がしやすく、水に強いのでザル、カゴ、スダレなど広く使用されます。
ハチク(淡竹) 直径が3〜8p、高さが6〜10m。
マダケに似ていますが、葉が細かく、皮に斑点はありません。細く割りやすいので提灯、茶せんなどに加工されます。
モウソウチク (孟宗竹) 直径が10〜15p、高さが10〜12mの大型の竹です。
切って花筒にしたり、建築用材に使われます
ホテイチク 直径が2〜9p、高さが5〜12m。
葉は若いときは濃い緑色ですが、後に黄色くなります。根本近くの節の間隔が接近し、交互に膨張する特徴があります。美的なため、高額な釣り竿、ステッキなどに使われます。
ヤダケ ヤダケ(矢竹) 直径が0.5〜1.5p、高さが2〜5m。
節の間が30p前後の長さがあるので、矢、うちわなどに使われます。
クマザサ ネマガリタケ (根曲竹) 直径0.6〜2cm、高さが1.5〜4m。
足の方が弓状に曲り、耐久性があります。曲りを利用して杖、花器などに、また、かご・ざるの縁巻などに使用します。葉はちまきに使われます。 │
メダケ メダケ(女竹) シノダケ(篠竹)、ニガタケ(苦竹)とも言います。 直径1〜3cm、高さが3〜6m。
節の間が30〜50cmと長く、柔らかく、折れにくいので、うちわ、釣り竿、かご・ざる、行李など幅広く使用されます。

                                        
竹を割って編んだ容器を「かご」「ざる」と呼びますが、明確な区別はないようです。「ざる」は「かご」の一種で、主に台所で使用するものであり、細かく目ののつんだ「笊編み」で作られたものというようなことが言われますが、確実なものではありません。
 「かご」「ざる」の製作方法は、竹を割り、内側をはいで外側の緑色のところを使用します。まず底から編んで行き、「腰立ち」といわれる、底から上に立ち上げる部分を編みます。さらに「胴編み」と呼ばれる側面を編んで、最後に「縁仕上げ」をします。
六ツ目編み 四ツ目編み

 「篠笛」は、篠竹で作られる横笛のひとつで、盆踊り、神楽、田歌、獅子舞などに広くもちいられています。篠笛に適した竹は、肉薄で節の間が長く、皮が硬いもので、特に、砂地に生える竹がよく、千葉県南部や岐阜県産の篠竹が良いとされています。
 製作方法は、12月〜2月頃に篠竹を切り、調子によって長さを切りそろえます。その後、水で洗い熱して油抜きをします。その後、2年〜10年乾かします。細工はまず定規で中心を取った後、唄口と指穴を正確に開けていきます。次に開けた穴を小刀を使って縦長の楕円形に整えていきます。磨いた後、唄口より先の部分に檜の栓をします。

江戸時代には、夏の涼をとるためだけでなく、浮世絵の技術によって「役者絵」「美人画」等を摺った絵うちわが広く庶民に使われました。柿渋を塗った実用的な団扇に対して、装飾としての団扇が誕生したのです。そのような大量の団扇の原料を供給していたのが、千葉県南部の安房地方でした。明治期になると、千葉県の地元でうちわ骨を作る技術が発達し、大正期には完成品のうちわを作れるようになりました。やがてこの技術が広がり、安房地方の女性、老人たちの内職となって行きました。そして昭和初期には、年間数百万本の「房州うちわ」が出荷されるようになって行きました。
 房州うちわの製作は、細かい作業を加えると20工程以上あります。主な工程を紹介します。まず篠竹を団扇の長さに切り、油抜きをして、よく乾燥した竹を籾殻でよく磨きます。そして団扇骨となる部分を作るため、節の上を約40本に割り、よく揉みます。節の真下に穴を開け、柄の部分が割れないように、柳材を詰めます。40本に割った部分を木綿糸で交互に編み扇状に広げ、節の下の穴に入れた「スゲ」に木綿糸で止めます。うちわ骨に糊をつけ、裏表をはり、余分な骨を切り落とし、紙で縁取りをします。
                          広げたうちわ骨


弓矢は、飛び道具としては投げ槍についで発明されたもので、非常に長い歴史を持っています。矢は戦場での必需品として、正確さ、丈夫さを要求されるものであったと共に、儀礼に使用される場合は、美しさも要求されました。
 矢の製作は、まず矢竹を3〜4か月間、風雨にさらしてあく抜きをし、皮をむきます。その後注文の長さに切りそろえ、曲がりを炭火であぶりながら矯正します。節を削り、芽の残りを取ります。火入れのときに割れないようにするため、中央部の節だけを残し上下の節を抜きます。矢の最上部に弦をかけるための溝である筈を彫ります。羽根付けを行い、鏃(やじり)をつけます。
竹を温める(荒矯め・火入れ) 竹の節を転がしながら削る
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 鉄を熱して、刃物を作成したり、鋼をつけたりする技術は、古代から非常に難しい技術として人々に認識されていました。古代末期には職人として鍛冶が成長していきました。そのような鍛冶の中で専業化が進み、刀を専門に打つ刀鍛冶が生まれ、中世になると農具を生産する農具鍛冶、鉄砲鍛冶、近世になると包丁鍛冶というように分化していきました。

硬い鉄に、熱を加えたり、冷やしたり、叩いたり、磨いたりして、形を自在にあやつり、硬さをも調整していく技術を持っているのが「鍛冶屋」の職人です。複雑な形をし、微妙なすりあわせでラシャ布を切る鋏を、鉄の板からハンマーなどで作り出していきます。その工程を見てみましょう。
@親指の輪ごしらえ−親指を入れる穴を作る A下指の輪ごしらえ−人指し指から小指までを入れる穴を作る
B刃先の部分に刃金(鋼−はがね)をのせる C鉄を熱し、叩いて刃金をつける
D穂延べ(ほのべ)−刃金をつけた後、鋏の形に伸ばす E首まげ−下指部分がつかみやすいように鋏の形にまげる
F荒仕上げ−やすりで磨き、全体の金槌の跡を取る G目打ちで、ネジを通す穴の印をつける
Hドリルでネジを通す穴をあける
I熱した鋏を水に入れ、焼き入れをする
 
J焼きもどし−叩いて焼き入れで生じたひずみを取る K焼き研ぎ−刃のすりあわせを整え、更に刃を布やヤスリで研ぐ
L刃ひき−仕上げに刃を研ぐ M完成した鋏
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 粘土で形を作り、高温で焼き固め、容器などを造る技術は、日本では1万数千年前から行われてきました。粘土などで形を作る場合、回転するろくろを使用したり、ろくろを使わない方法では、粘土の固まり中央にくぼみを造り、周囲の壁を薄くしていく「手捏ね」、粘土の紐や帯を輪積みにしたり、巻き上げたりしていく「紐作り」、粘土を型に押しつけて形を作る「型作り」などがあります。これを乾かして、粘土に含まれている水分を乾燥させます。窯で焼き温度が450度〜700度程度になると粘土の中の結晶水が放出され、硬い土器となります。600度〜800度で焼いた土器は叩いても低い音しかしませんが、1000度以上の高温で焼いた土器は叩くと高い音がします。焼く際に酸素を十分に与えると、粘土の中の鉄分が酸素と反応して赤く明るい色に仕上がり、酸素が不足するとくすんだ色になります。

粘土を水でこねて形をつくり、乾燥させてから、600度〜800度程度の熱で焼いたものを土器と呼んでいます。土器には細かな穴が無数にあるため、水などを入れるとにじみ出して来るという性質を持っています。

生地の焼き方が中程度で、釉薬を施したものを陶器と呼んでいます。磁器に近いものもあり明確な区別は難しいですが、磁器に比べて透明性が少なく、強度が劣り、叩くと濁った音がするのが特徴です。日本では益子焼、志野焼、萩焼などがこれに当たります。

陶土、石英、長石などの素地で形を作り、釉薬(うわぐすり)をかけて、1000度〜1500度の高温で焼くと、素地のガラス質が変化して半透明の焼き物ができます。硬く吸湿性がほとんどなく、叩くと高い音がします。日本のものでは、有田焼、九谷焼、瀬戸焼などがこれにあたります

土器と同じように、粘土を水でこねて、乾燥させてから、1000度〜1300度程度の高温で焼き上げたものを、石のように硬く焼きしめた器の意味でb器(せっき)と呼んでいます。土器と違って小さな穴が少なく、水を入れてもしみ出してきたりしません。また、色が付いていることで、磁器とも区別します。日本の焼き物では、備前(びぜん)焼、信楽(しがらき)焼などがこれにあたります。

素焼きの陶磁器にかけるガラス質の溶液のことを言います。これをかけて焼くと表面にガラス質の薄い膜ができ、水分を通さない、表面が滑らかになり汚れにくくなる、強度があがる、美しくなるなどの効果があります。釉薬を初めて作り出したのはエジプト、中国などで、この技術が世界に広まっていきました。日本では、燃料の薪の灰が土と溶け合ってガラス状になった自然釉や唐三彩を源とする銅による釉薬が7〜8世紀頃から使われていました。
いろいろな釉薬
伊羅保(いらぼ)釉−焼くと、むらのある黄色になります るりなまこ釉−焼くと、黒味がかかった青色になります
         
白釉−焼くと、白くなります 木灰透明釉−焼くと、黄色かかった透明色になります
うずらマット釉−焼くと、鶉の卵のような、薄いベージュ色に、茶色の斑点がでます。

 瓦を焼く技術は中国、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。古くは瓦の製作は粘土で円筒を作り、それを2つに割って丸瓦を、3〜4つに割って平瓦にしていました。平瓦は他にも湾曲した台の上で作る方法がありました。瓦は古代、中世においては寺社、公家、武家などのものでした。一般の民家に使用されるようになるのは、近世に入って浅瓦が考案されて以後のことになります。
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古くから紙の原料として使われていたのが麻や楮(こうぞ)と呼ばれる植物です。しかし、麻紙は入手が困難で、処理がしにくく、且つ紙肌が粗いということで平安時代の末には使われなくなりました。一方楮は種類も多く、栽培が容易で処理が簡単、そのうえ紙質が優美であることから、紙の主原料となっています。そのほか雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)なども使われました。
 楮を例に、原料の加工方法を見てみると、収穫−蒸す−黒皮をむく−黒皮・ナゼ皮を削る−煮熟−水に晒す−ゴミを取る−叩いて分解する−漉く−乾燥するという工程で大変な手間がかかります。
 日本の漉き方である「流し漉き」は漉槽の紙料を簀桁ですくい、桁のなかで上下左右に揺り流し、紙料を捨てることで紙の層を作る漉き方です。「初水」、「調子」、「捨て水」を繰り返すことで、薄くて綺麗な紙を漉くことができます。そのため、沈みやすく、固まりやすい紙料を均等に分散させ、浮かせるために「ネリ」と呼ばれる植物粘液が必要となります。ネリにはトロロアオイなどが使われます。
                                 
@刈り取ってきた楮を蒸す A楮の皮をはがす
B楮を煮る C煮た楮をたたいて分解する

張り子とは、木で作った型に和紙を何重にも貼りつけ、よく乾かします。その後、紙の一部を切り取り、木型を取り出し、切った所を和紙で貼りなおします。その上に彩色をして仕上げます。江戸時代には京都、江戸で人形、鳥獣の張り子が作られ、次第に全国に広まり、それぞれの地方色豊かな張り子が作られるようになりました。
 房総地方の張り子は、明治後期から、群馬県、埼玉県の技術を学んで「だるま」を中心に製作されるようになり、昭和初期には、十数人の張り子職人がいたそうです。
張り子作りの工程
右から、張り子の木型、木型に和紙を貼ったもの、背を割り木型を取り出したもの、胡粉を塗ったもの、色付けしたもの。

余り知られていないことですが、近世の社会では、紙の着物が存在しました。和紙に柿渋などを塗って揉んで柔らかくした「紙子(かみこ)」と、紙で糸を作り、織った布である「紙布(しふ)」です。紙布は湿気をよく吸い、しかも丈夫ですから漁師の方の上着などによく使われました。もちろん、洗濯することも出来ました。
紙布の作り方は、和紙に簾状に細く切れ目を入れ、一晩湿り気を与え、揉むようにして糸にしていきます。それを一本の糸にして、撚りをかけて紙の糸ができます。この糸を布を織るときと同じように機にかけ、紙布を織っていきます。
2mm幅に切れ目を入れた和紙 切れ目を入れた和紙を湿らせ、揉んだもの

中国では竹、木の札、絹布などが文字を記録する材料として、使用されていましたが、紙が発明されて以来、様々な形の本が作られるようになりました。軸に長い紙を巻いた巻子本、長い紙を縦に細長く折り畳んだ折本。折本の背の部分を糊付けした旋風葉、紙を二つ折りにして重ね、折り目の部分を糊付けした粘葉装等が考案されました。さらに糸で綴じる線装本が発明され、四つ目綴じ、康煕綴じ、亀甲綴じ、麻の葉綴じ、列帖装、大和綴じ、大福帳等の綴じ方が考案されました。
 また、本を保護し、散逸を防ぎ、重ねて保管するために「帙」が考え出されました。最初、二枚の板に紐を通し本を挟んでいましたが、徐々に丸帙(無双帙)、四方帙、箱帙などが作られるようになりました。ボール紙がまだ無かった時代であり、和紙を膠で何枚張り合わせて芯材を作らなければならないため、大変贅沢なものでした。
四つ目綴じ 康煕綴じ 麻の葉綴じ
亀甲綴じ 大和綴じ

板に文字、絵などを浮き彫りにし、その上に紙をのせ大量に印刷する技術は、古代では経本などに使用されていましたが、江戸時代の浮世絵に代表される多色摺りの技術はその到達点と言っていいでしょう。浮世絵は数十回同じ紙に色を重ねていくため、丈夫な越前和紙に礬水(どうさ)を引いたものを使います。礬水とは膠(にかわ)と明礬(みょうばん)を水に混ぜたもので、紙が丈夫になるとともに、絵の具のにじみを防止することが出来ます。版木の上に絵の具を置き、その上に礬水引きの和紙を置いて、馬楝でこすります。馬楝の中は竹皮を撚った縄が渦巻き状に巻いてあり、これが竹皮で包まれています。摺師は摺れ方の異なる何種類もの馬楝を使い分けて仕事をしました
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