端午の節供(タンゴノセック) |
武士の時代には、「午」にちなんで馬上から矢を射たり、菖蒲が「尚武」と同音であることから勝負事が行われるようになります。菖蒲を頭につけて邪気払いとしたものがやがて菖蒲冑となり武者人形となるなど、次第に男子の無事成長を祈る行事へと変貌していきました。江戸時代後期、佐倉藩では質素倹約を重んじ、武家、庶民の生活に様々な規制を設けました。天保4年(1833)の法令集では武家における端午の節供の飾りものについて、様々な規定が決められていました。 |
上総の農家−山武郡大網白里町砂田の事例 |
菖蒲湯を沸かし、草餅を食べ、男児の成長を願い上総トンビといわれる袖凧をあげました。 |
下総の農家−印旛郡栄町安食の事例 |
安房の農家−安房郡三芳村山名の事例 |
主屋の軒先に菖蒲と蓬を束ねたものを挿して菖蒲湯の風呂を沸かし、柏餅を供えます。初節供には祝い膳を作り祝いました。 |
商家−佐原市の事例 |
町場では、近くの農家から売りに来た菖蒲と蓬を買い求め、軒にさしました。柏餅は、江戸時代の中ごろから広まりました。柏の木は冬も葉が落ちず、新しい葉が芽吹いた後に落ちることから、その葉に家族がいつまでも幸せに暮らせる願いを込めたのです。 |
武家屋敷−佐倉市宮小路の事例 |
天保4年(1833)の法令集では武家における端午の節供の飾りものについて、70〜90石くらいの石高の武家では、新規に作る外幟は並の木綿・2幅織りが2本まで、先祖伝来の外幟は2本まで、画仙紙20枚継ぎくらいまでの鍾馗幟が1本まで、槍が3〜4本までしか立ててはいけないとされていました。吹き貫鯉幟、人形・甲冑も飾ることを慎むことになっていました。佐倉市宮小路では、三方に山盛り柏餅をつんだものを床の間に供え、菖蒲と蓬の葉を束ねたものを軒やひさしにのせました。 |