第3章 千葉の鯨と人間のかかわり

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 この章では、千葉の人々がクジラを利用してきた歴史を辿ります。

 千葉の縄文時代の遺跡からはクジラの骨が出土しています。今から約8000年前の館山市沖ノ島遺跡からは焼けたイルカの骨が、また、鉈切神社(なたぎりじんじゃ)洞穴(ほらあな/どうけつ)からはイルカの骨とともに大型の銛(もり)が出土しており、イルカ漁が行われていたことがわかります。クジラは食料としてだけではなく、道具や装身具にも使われました。皿状のくぼみがつけられた骨や土器を製作する際の台座に使用されていた骨、下顎骨(かがくこつ)を利用した腰飾(こしかざり)や歯を利用した耳飾も出土しています。弥生時代以降も鯨骨は、釣りの擬餌針(ぎじばり)に利用されるなど道具としての利用が続いています。

 中世には、日蓮の書状にクジラが房総半島南部から鎌倉に運ばれ、油をしぼって利用していたと考えられる記述があります。館山市長須賀条里制遺跡(ながすかじょうりせいいせき)の13世紀頃の井戸からは、削られた痕跡のあるゴンドウ類の頭骨や肋骨が出土しており、日蓮の書状を裏付けるようなクジラ利用を物語っています。

 江戸時代の17世紀初頭に房総半島南部の戦国大名である里見忠義(さとみただよし)が伊勢神宮の神職(しんしょく)のものにクジラの皮を初穂(はつほ)として献上することを記載した書状の写しが鋸南町勝山の醍醐家(だいごけ)に伝わっています。醍醐家は、浜名主(はまなぬし)で代々「醍醐新兵衛」を名乗り、「醍醐組」というツチクジラを対象とした房総の沿岸捕鯨の組織をつくった「鯨組」の元締めです。当時は「突銛」と「アガシ銛」を使った突取り式の捕鯨が行われていました。19世紀後半には醍醐組八代目醍醐新兵衛定緝(さだつぐ)が勝山の漁師二人と、現在の北海道にあたる蝦夷地(えぞち)へおもむき、アメリカ式帆船捕鯨の試験を行っています。

 明治時代に入ると欧米で開発された新たな捕鯨技術が導入され、従来の「醍醐組」が会社経営へと移行します。1887年からは農商務省の技師である関澤明清(せきざわあけきよ)が醍醐組九代目醍醐新兵衛定固(さだかた)らと捕鯨試験を行い、関澤明清の死後には実弟鏑木余三男(かぶらぎよさお)らが館山に「房総遠洋漁業株式会社」を設立しました。1906年には「東海漁業株式会社」に改称し、1908年には銚子沖でノルウェー式捕鯨を開始しています。明治時代後半には、千葉県内には次々に捕鯨会社が設立されます。その結果、クジラの捕獲量が減少したため、官民とも規制を図るようになり、多くの会社が「東洋捕鯨株式会社」などの大資本の会社に吸収されていきました。「東海漁業株式会社」は、1913年に基地を南房総市白浜町乙浜(おとはま)に移し、1969年まで営業を続けました。

 昭和時代の1949年、南房総市和田町に「外房(がいぼう)捕鯨株式会社」が設立されました。現在も営業する千葉県で唯一の捕鯨会社で、房総沖でツチクジラを捕獲しています。肉は地元住民や加工業者に販売、骨は加熱乾燥して粉砕し骨粉、血液は煮沸乾燥して血粉としてともにビワの肥料やバラの肥料として販売されていました。現在でも生鮮肉として販売されたり、「くじらのたれ」という干し肉などの加工用に販売されています。

 現在の人とクジラとのかかわり方は、食や加工品だけに限られません。銚子沖では通年ホエールウォッチングが行われており、鴨川シーワルドなど生きたクジラに会える水族館などもあります。鯨と人のかかわり方は時代に合わせて少しずつ変化しています。

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