2020/06/12(金)
小糸川支流の江川と派川(はせん)江川
君津市街の中ではまだ田園風景が残る小糸川左岸には、いくつかの支流が流れ込む。そのひとつ、三舟山南方の丘陵を開析する谷を水源とし、小糸川の沖積低地を流れるのが江川(えがわ)である(図1、写真1)。

- 図1 小糸川下流域の地形(カシミール3D+スーパー地形で作成した図に地名等を加筆)

- 写真1 橋にかかる江川の表示
谷津の湧水や雨水を集めて平坦な低地を流れる河川にしては、江川は中流部でも水量が多い(写真2)。上流の郡ダムからの放水もあるのかもしれないが、川沿いを歩いていると、農地からの排水や生活排水などが、流域のあちこちから常時流れ込んできており(写真3)、水が集まってくる場所であることがわかる。

- 写真2 中流の景観

- 写真3 生活排水が流れ込む
このように水位高めで流れてきた江川は、小糸川本流との合流点近くで(図2の貞元小学校のところ)西側に分流する(写真4)。またそのすぐ下流側にはコンクリートの堰が作られ、その先200mほどの区間(図2赤丸印のところ)は水位を下げて(写真5)、小糸川本流に合流させている(写真6)。

- 図2 小糸川、江川、派川江川の位置関係(君津市洪水ハザードマップ その1 小糸川下流域(部分)に加筆)
- 黄色や水色で塗られた部分は、小糸川流域の24時間の総雨量360mmによって氾濫した場合の浸水想定区域

- 写真4 分流する江川(写真中央の水門のところ)と堰

- 写真5 堰の下流側、橋の先で小糸川本流と合流する。この区間は水位が低い

- 写真6 江川と小糸川本流との合流地点、左側は魚道になっている
一方分流した川は、「派川(はせん)江川」となり、低い土地を曲流し(写真7)、再び下流で小糸川本流に流れ込んでいる(図2×印のところ)。ちなみに「派川」というのは、本川から分かれた川につける河川の用語であり、このあたりでは、小糸川の支流の「江川」から分かれた「派川江川」が、再び小糸川に合流するという複雑なことになっている。どうしてこうなったのだろうか。

- 写真7 派川江川の水路(右側)
実は以前江川は現在の位置で小糸川と合流していたのではなく、分流した派川江川の方を流れて、下流で小糸川に合流していた。しかし大雨が降るたびに、江川の水があふれて中富や下湯江などの地区に被害が出るため、戦後の昭和20年代に、江川から最短距離で直接小糸川に水を流すための放水路を作ったということである(小糸川倶楽部,2005)。つまり堰から合流地点まで(図2の赤丸の部分)は、後から作った人工水路なのである。
さらにもっと以前の話をすれば、この派川江川は、もともとは小糸川の本流だった。近世初頭までこのあたりの小糸川は大きく曲流しながら流れていたが、大雨のたびに流路は移動し、水があふれて被害が出たり、土地の境界を巡る争いごとが起きたりしたため、江戸後期に小糸川の直線化(人工短絡、川廻し)を行った(中富郷土誌編集委員会編,1999など)。そして旧流路にできた水路は、江川と繋がって、小糸川支流「江川」となり、下流(図2の×印のところ)で小糸川に合流していた。
このように「小糸川本流」だったところは、川廻しで支流「江川」となり、さらに放水路ができて「派川江川」になるというように、度重なる河川改修で流れの様子や名称が変わっていったのである。
- 【引用文献】
- 小糸川倶楽部(2005):平成17年度記録集 水との闘い 第Ⅰ編 暴れ川の歴史 きみつアーカイブス archives.kimitsu.jp/
- 中富郷土誌編集委員会編(1999):中富郷土誌 190p.
(八木令子)