教室博日記 No.2051

 2021/12/10(金)

 大昔の小糸川の流路跡

 東京湾に突き出た砂州の地形が特徴的な富津洲の南側に、下洲漁港がある(写真1)。その東端に川名川という小さな河川が流れ込んでいる(図1)。

  • 写真1 富津洲の南側の下洲漁港 川名川が流れ込む
  • 図1 川名川の位置 地理院地図Vectorを基に作成

 この川は、河口を離れると直線状の細い人工的な河川となり(写真2)、内房線の線路を越えた下飯野地区あたりで流路がはっきりしなくなってしまう(写真3)。

  • 写真2 河口近くの川名川
  • 写真3 川名川の最上流部に位置する下飯野地区 低地が広がり人工的な水路がみられる

 しかしこの川が流れる谷の幅は意外に広い(写真4、5)。

  • 写真4 写真右端を流れる川名川は直線状の人工的な河川、遠景に見える林までの間の水田地帯が川名川の幅の広い谷
  • 写真5 後方の少し高い部分が富津の砂州地形

 国土地理院の土地条件図を見ると、富津の砂州地形に挟まれた幅200メートル以上の谷(周囲より低い後背湿地という地形)が河口まで続いている(図2)。とてもこのような小河川が作った谷とは考えられない。

  • 図2 川名川周辺の地形 緑の部分が周辺の砂州よりも低い後背湿地    (地理院地図 地形分類(自然地形)を基に作成)

 実はこの谷、ボーリングデータなどから、かつて小糸川下流の流路であったと考えられている(千葉県1969、貝塚1977、君津市市史編さん委員会編1996、ほか)。「かつて」というのはどのくらいの時期かというと、今から2万年前くらいの最終氷期といわれる寒い時期だ。氷期には陸上の氷床や氷河が発達して海の水が少なくなり、海水面が現在より100メートル以上下がっていたため、関東平野では東京湾も含めて広く陸化しており、古東京川と呼ばれる大河川が大地を削っていた(図3)。その支流のひとつが小糸川であるが、富津洲の北側を流れる現在の流路とは異なり、この頃は南西に向かって古東京川に合流していた。その一部が現在の川名川の谷と重なっている。海面が下がっている時期には、それに対応して川は大地を削っていくので、大きな谷が形成されていたと考えられる。

  • 図3 最終氷期以降の東京湾周辺の海陸の分布(貝塚,1977)

 その後氷期が終わり、地球全体が暖かくなると、陸上の氷が融けて7000年前くらいをピークに海水面が上昇し、現在の海岸線よりも内陸まで海が入り込んだ。縄文海進と呼ばれるこの時期には、氷期にできた谷は海面下に沈み、そこに土砂が堆積して「埋没谷」となった。現在も周囲の砂州よりも数メートル低い谷(後背湿地)となっている。

 川名川はかつての小糸川が作った埋没谷を流れる現在の河川なのである。砂州地形に挟まれた広い谷を見ながら(写真6)、かつてここに小糸川がゆったりと流れていたと想像すると、何となく大きな気持ちになる。

  • 写真6 かつての小糸川の流路跡 この下に埋没谷
  • 【参考文献】
  •  千葉県開発局(1969):京葉工業地帯の地盤. 215p.
  •  貝塚爽平(1977):日本の地形-特質と由来-. 岩波新書
  •  君津市市史編さん委員会編(1996):君津市史 自然編.

(八木令子)