教室博日記 No.2061

 2022/01/14(金)

 川名川流域の集落とその成り立ち

 富津洲南側の下洲漁港に流れ込む川名川の低地に隣接して、樹林に囲まれた集落がある(写真1、図1)。

  • 写真1 川名川の低地と集落
  • 図1 川名川と集落の位置 地理院地図Vectorを基に作成

 水田が広がる低地を歩いていて、たまたま入り込んでしまったのだが、手入れの行き届いた家や蔵、家周りの水路、城下町のような鍵型に曲がった道など、趣のある街並みが印象に残った(写真2~6)。

  • 写真2 趣のある街並み1
  • 写真3 趣のある街並み2
  • 写真4 手入れの行き届いた水路
  • 写真5 写真奥で鍵型に曲がる道
  • 写真6 写真奥で緩やかに曲がる道

 歴史を感じさせる景観が気になって、この集落の成り立ちについて少し調べてみたが、直接それがわかるような資料は見つけられなかった。そこで富津市の文化財担当の方に伺ったところ、集落の北東端に位置する「雲宮(くもみや」」について書かれた「雲宮伝説考」(小沢,2009)という資料を紹介して下さった。

 それによると「雲宮」は、日本武尊が東征のために走水(はしりみず、三浦半島の海岸)から海を渡ってきて滞在した雲宮(籠り宮)であるという言い伝えがある場所で、その由来を記した碑文の中に、「雲宮の入江に王船をよせて、陸にあがった」という記載があるという。この一文は、雲宮に隣接する現在の川名川低地(写真7)が、かつては入江状になっていた事実を反映しており、雲宮付近は入江の最奥の港となっていたとしてもおかしくないとの意味にもとれる。そしてこのように内陸まで船が登っていけるという地の利があれば、そこに人々が集まり、やがて町ができていくということも考えられるのではないだろうか。

  • 写真7 川名川の低地 道路の右側が雲宮の集落

 「雲宮伝説考」には、この伝説がどこまで史実を反映しているか明らかでないと書かれており、現在の集落の成り立ちを直接結びつける根拠もない。しかし先月の教室博日記(No.2051)にも書いたように、現在川名川が流れている谷は、かつて小糸川がこのあたりを流れていたときに掘られたもので、約7000年前頃には地球全体が暖かくなって海水面が上昇し、谷に沿って内陸まで海が入り込んでいた(図2—1)。またその後気候がやや寒冷化し、「雲宮伝説」の時代(古墳時代?)の頃は、縄文海進で谷の奥まで入り込んでいた海(入江)が縮小し、低地が形成されていく過程にあった(図2—2)とすると、入江状の地形が残っていたということが、集落の立地も含め、この地域の成り立ちを考えるポイントになるのではないかと考える。

 なお川名川の谷の一部は、明治期の地形図(千葉県,1885)によると、かつての郡境(天羽郡と周准郡)に当たっており、行政的にも重要な位置にあったと思われる。

  • 図2 谷津のなりたち(縄文海進以降の低地の形成)(千葉自然環境調査会編2010より)

 謝辞:資料を紹介・提供して下さった富津市教育委員会の皆様にお礼申し上げます。

  • 【参考文献】
  •  小沢 洋(2009):雲宮伝説考. 富津公民館東京湾学講座・富津澪の会編「富津岬Ⅱ-東京湾口の自然と人生の年輪-」:26-27.
  •  千葉自然環境調査会編(2010):谷津田の自然,千葉市.
  •  千葉県(1885):七萬二千分之一 千葉縣管内實測全図(所蔵:富津市教育委員会).

(八木令子)