フィールドノート No.2243

 2023/03/11(土)

 浜田川流域に残る災害の痕跡と記録

 数年前、中央博物館の地学野外観察会の下見で、東京湾岸の人工改変された河川流域や、蓋をされて水面が見えない暗渠(あんきょ)になった川の上をよく歩いていた。コロナ禍でしばらく遠ざかっていたが、「地域に残る災害の痕跡と記録」をテーマにしている中央博の市民研究員が撮影した写真が気になり、久しぶりに現地を歩いた。

 気になったのは、「悲願達成感謝の碑」というちょっとかわった形の碑だ(写真1)。この碑があるのは、下総台地を水源とし、マリンスタジアム(千葉市美浜区)の西側で東京湾に注ぐ浜田川の上流にある神社の境内である。この神社は標高24メートルほどの台地の上(崖端)にあり、すぐ横が浜田川の谷(標高12.4メートル)になっている(図1)。

  • 写真1 神社の境内にある「悲願達成感謝の碑」(上原 恵氏撮影)
  • 図1 浜田川上流の地形
  •  地理院地図(オンライン)に地形分類図(国土地理院ベクトルタイル提供実験「自然地形」)を重ねた。オレンジ色は台地地表面、緑は谷底面(濃い緑は湿地性の谷底)、紫は急崖。赤い×印が神社の場所、黒い破線は台地の下に掘られたトンネルのルート、黒の×印は写真4の撮影位置

 現在水路は見られないが、元々の地形(台地の平坦面や谷地形)がよく残っており、坂や階段などで上り下りすることが多い場所である(写真2)。

  • 写真2 台地から谷へ下りる坂道

 さて写真1のように表側だけを見ても、この碑が何のために建てられたのかわからないが、裏側にまわると、由来が書かれた碑文と路線図がはめ込まれている(写真3)。

  • 写真3 碑の裏側(上原 恵氏撮影)
  •  碑文とトンネル(付け変えた水路)の位置を示す路線図がはめ込まれていた

 それによると、この神社の裾を流れていた浜田川の谷は、かつては水稲栽培に利用され流域は新田開発が盛んに行われてきたが、昭和40年代から急激に都市化が進み、水質の悪化とともに家屋に浸水被害をもたらすようになった。そのため治水工事が行われたが、住宅が密集している上に湿地性の地盤であったため(図1の濃い緑の部分)、水路を変更し、比較的地盤のいい台地の下にトンネルを通して水を流すという全国でも例を見ない方法で工事を完成させたという。

 治水工事への地元の協力と住民の悲願達成を記念して、地元自治会がこの碑を建てたということだが、半円形の部分は、トンネル工事(泥水加圧型シールド工法と記載)に使用した掘削機の全面盤刃型のレプリカ(部分?)ということだ。

 このような碑は、浜田川流域でもかつて浸水被害があったことや、それをどう回避してきたかという地域の水害の歴史を伝える重要なモニュメントである。また掘削機のレプリカを見て、トンネルの大きさや、どのように掘られたのか想像することもできる。しかし神社の関係者は、「碑が建てられてからかなりの年月が経っているので、地元でも工事について詳しく知っている人は少なくなっており、もっと人の目にふれる場所に碑を置いた方がいいのではないか」と話されていたという(上原,2023)。

 この碑が、神社を訪れる人々や、新しくこの地域に住むようになった人、あるいは近くの小学校の子ども達などの目に留まり、身近な地域の土地の成り立ちについて知るきっかけになればと思う。

 なおこの浜田川の谷は、京成線の南側で公園や市民農園などに利用され水路が見えなくなるが、そのさらに南で再び水路(開渠:かいきょ)が現れて(図1の黒い×印のところ)埋立地の先にある河口へと向かう(写真4)。水路の先にかすかに見えているのは、幕張新都心地区の高層ビルである。流域長数キロメートルに過ぎない小河川ではあるが、上流から下流まで変化に富んだ景観と人々の暮らしがあることが感じられる。

  • 写真4 再び水路が現れた浜田川(習志野市実籾本郷)
  •  水路の先にかすかにみえるのは、幕張新都心地区の高層ビル
  • 【参考・引用文献】
  •  上原 恵(2023):地域に残る災害の痕跡と記録の収集と分析(4). 千葉県立中央博物館令和4年度市民研究員成果報告書.

(八木令子)