平成4年度千葉県工業歴史資料調査報告書所収(平成5年3月発行)

川崎製鉄千葉製鉄所1号高炉の建設について

  川崎製鉄技術研究本部 反町健一

1 はじめに

 千葉県工業歴史資料調査会が発足し,その一環として,川崎製鉄(株)干葉1号高炉の建設について調査を行った。調査は千葉県立現代産業科学館(仮称)の設立主旨に基づき,千葉県の工業歴史の中で果たした川崎製鉄の千葉進出の役割を,産業史の観点から調べると共に,鉄鋼技術史の観点からも考察を加えた。

2 調査方法

 川崎製鉄,千葉1号高炉の火入れは昭和28年6月17日であり,調査時点より40年をさかのぼる。このため,当時の建設担当者は全員退職しており,直接的調査は不可能であった。従って,間接的な資料調査が主体となった。資料の種類は大別して,1)公的資料,2)社内資料,3)個人資料に分けられる。千葉1号高炉は,3回の改修を経て,昭和52年2月15日に吹止められた。吹止めからも16年を経ており,その操業を知る人も少なくなっている。工業歴史資料調査会の要望に沿うべく,極力,生の資料に接するべく調査を試みたが,その種類は,1)伝記,2)高炉操業表,3)PR誌の思い出つづり,に分けられる。以上,一部に不足な部分はあると思われるが,資料と写真をもとに調査を行った。

3 調査内容と調査結果

(1)川崎製鉄から見た千葉1号高炉の意義

 川崎製鉄は戦後,昭和25年8月に川崎重工X製鉄部門が独立して設立された。それ以前は,神戸市葺合工場を主力としたいわゆる平炉メーカーで,製銑部門を持たず,主要な製鋼原料である銑鉄は日本製鉄から供給を受けていた。しかるに,日本製鉄が分離して,八幡製鉄,冨士製鉄といった民間企業に移った場合には,銑鉄供給を競争会社にゆだねる形となり,川崎製鉄にとって状況は著しく不利となる。一方,別の主要原料である鉄屑は・世界的な戦時屑の枯渇とともに,供給量の不足が予想された。そこで,原料対策としては,将来入手しやすくなるはずの鉄鉱石によって,鉄源供給を安定させるほうが有利であり,最終的にはどうしても高炉を持たねばならないとの結論に達した。しかしながら,川鉄の一貫製鉄所建設案に対しては次の2点において反対の意見が強かった.

 第1の反対意見は,当時の日本には,鉄鉱石の資源もなく,製鉄用のコークスをつくる強粘結炭の資源も,敗戦によって失った。このような原料事情のもとでは,スクラップを中心とした平炉製鋼法なら成り立つかもしれないが,鉄鋼一貫の生産形態は無理ではないかという考えである。さらに強かったのが,設備二重投資論であった。当時,全国で37基の溶鉱炉があったが,実際に稼働しているのは12基にすぎなかった。銑鉄が必要なら,休止溶鉱炉を動かせばいい,新設は必要なしとの意見が圧倒的な多数意見であった。さらに,設立したばかりの資本金5億円の新会社が,総額163億円の一貫製鉄所を建設することに対しては,通産省,日本銀行からの疑問の声が聞こえた。世間の目には無謀な計画と映り,常識からすれば,千葉計画を身のほどもわきまえない暴挙と批判された。しかし,西山弥太郎社長は,今後の日本経済の発展には工業の振興によって輸出に重点を置き,経済自立を達成するべきとの強い信念を持っていた。このためには,世界最新鋭の鉄鋼生産設備を有する臨海製鉄所が不可欠であるとの不退転の決意をもって,周囲の説得にあたり,協力を求めた。

(2)千葉県から見た千葉1号高炉の意義

 川崎製鉄発足の時期と前後して,新製鉄所建設の具体案が練られ,用地の選定作業が始められた。最初の候補地は山口県光の元海軍工廠跡であった。次いで,徳山,防府,宇部の山口県下の候補地が調査された。この中では,防府は塩田の跡で100万坪の用地があり,港もよく地盤,水と電力などの条件を満たしており,市当局の熱心な勧誘もあって,大勢はここに傾いていた。その一方で,西山社長は瀬戸内海だけでなく,東京湾の調査を指示していたが,山地八郎,東京通癬局長より,千葉市蘇我駅の海よりに日立航空機の工場跡地の紹介があった。製鉄所建設用地の決定にさいしては,地形,地盤,用水,電力,港湾,鉄道,労働力,市場などの検討が必要である。千葉で最も問題になったのは,港湾と用水であった。千葉市一帯の海岸は,昔から潮干狩で知られる遠浅の海岸である。このような場所に1万トン級の船が出入りする港ができるものか疑問がおこった。しかし,当時においても,浚渫機械の発達で,海底を掘ることは比較的容易であり,掘った土砂はそのまま埋立に使えるので一石二鳥である。また,千葉の周辺には大きな河川がなく内陸から運んでくる土砂が少ない。東京湾の海流は毎時3ノット程度であり,漂砂の心配がなく,掘ったあとが埋まらないことが判明した。用水は,農林省の印旛沼放水路計画があり,この水の利用が検討された。しかし,放水路は昭和29年の完成のため,当面は豊富な地下水を利用することとなった。記録によれば,当時の蘇我周辺は,夜になると電圧が落ちて機械が停止するほどの電力事情であった。そこで,西山社長は,新木東京電力社長に事態の改善策を依頼したほどであった。こうした事情もあったため,千葉1号高炉の建設に併せて自家発電工場(出力1万2500キロワット)の建設も進められた。用水計画は放水路の計画が遅れたため,直接印旛沼より川崎製鉄までの取水工事申請がなされた。この時,千葉県は農業を中心に生きるべきとする意見と,工業県として発展を図るべきとする意見とあり,印旛沼の用水をめぐって議論がなされたとの記録がある。このように終戦直前の千葉県は,農業県であり,千葉市は軍都であった。防府市と千葉市の製鉄所誘致運動は激しく競合するかたちとなったが,西山社長の決断は千葉立地と下った。宮内三郎千葉市長は後に,川崎製鉄の千葉誘致が,京葉工業地帯の導火線となり,全国的見地からは新産業都市建設の発祥,典型的事例となったと述べている。

(3)製鋼技術史から見た千葉1号高炉の意義

 川崎製鉄Xの設立が昭和25年8月,千葉への進出を決定し,鉄鋼一貫製鉄所の新設申請を通産大臣あてに提出したのが,同年11月である。翌年(昭和26年)1月には千葉製鉄所を開設した。反対の意見も一部にあったが,通産省より第1期工事の正式承認が得られたのが昭和27年1月であった。即,第1高炉の建設に着手し,火入れを行ったのが,昭和28年6月であった。認可から稼働まで1年半の短期間の建設である。

 さらに,会社設立から高炉火入れまで2年10ヵ月の短期間であった。その間,昭和26年5月には海外技術調査団が出発し,川崎製鉄にとって初めての一貫製鉄所を世界で最も進んだ製鉄所とすべく,熱心な議論が行われた。西山社長は千葉製鉄所の立案に際して,単純化,大型化,集約化,一貫化,連続化,自動化,高速化の基本原則を指示した。この合理精神に基づき,工場のレイアウトが決定された。当時,海外より鉄鉱石を受け入れ,製品を海外に輸出するという臨海製鉄所の概念は,全く新しい考え方であった。川崎製鉄千葉製鉄所の成功により,その主張の正しさが証明され,以後の日本製鋼業の発展のルートを開拓したものと評価される。同種の製鉄所は,昭和34年に神戸製鋼所X神戸製鉄所・八幡製鉄X八幡製鉄所,次いで36年に住友金属工業X和歌山製鉄所とあいついで開設された。この意味で,川崎製鉄千葉製鉄所は「鉄のパイオニア」と呼ばれている。戦後日本鉄鋼業の近代化投資の推移を表1に示した。また,千葉製鉄所の建設で採用された7原則は,42年後の今日においても十分に通用するものであり,工業発展の基礎となる指針であった。

(4)製銑技術史から見た千葉1号高炉の意義

 第1高炉の建設に当たっては,革新的設備として,1)フリースタンディング型溶鉱炉,2)ベルトコンベアーシステム,3)オアーベッディング,4)ペレタイジング,などの新しい試みが採用された。溶鉱炉関係では,第1にあげられるのが,炉体形式にフリースタンディング型を採用したことである。フリースタンディング型の溶鉱炉は,従来のシャフトコラム型にくらべて,1)建設費が安いこと,2)炉体周囲にシャフト支柱がないので作業性がよいこと,3)炉の寿命が長いこと,などのすぐれた点を持っていた。この採用にあたっては,西独のパウル・ウォルフ氏から設計図を購入した。第2の特色としては,溶鉱炉のシャフト上部まで冷却函を入れたことである。これにより,シャフトの熱膨張を最小限におさえ,同時に冷却函が炉体レンガをささえることができたので,レンガ寿命を延長させることができた。第3の特色は,ガス下降管を1本にして,炉頂という概念を下方にまで下げたことである。これは米国で多く採用されている様式であった。以上の3つの特色によって,炉体構造はドイツ式だが,炉頂の姿はアメリカ式という独特の溶鉱炉が出現することになった。以後わが国の高炉にこの形式が定着した。このほか,羽口のデューゼンストックとノズルに鋳鋼製を初めて採用し,内面ライニングにキャスタブル耐火物を使用した。このため溶接による修理や今日の高温複合送風が可能になった。熱風炉関係では,わが国で初めてチンメルマン・ヤンセン自動弁切換装置を設置して,切換作業を遠隔操作化し,また煙道を地上に出して地下水の影響を除いた。このように,溶鉱炉,熱風炉を通じて,いろいろ新規軸を採用したが,操業の安定性・確実性を確保するために,計器類の大幅採用と各種操作をセンターに集中するという方法がとられた。これは当時としては画期的な試みで,その後の操業自動化,計測化のきっかけをつくったものとして業界の注目を集めた。昭和28年6月17日午前11時35分,第1溶鉱炉に待望の火入れが行われ,翌18日午後3時22分に出銑を開始,36.9トンの銑鉄を生産して千葉製鉄所のスタートが切られた。初湯の成分は〔Si〕7.90%〔S〕0.015%,溶銑温度1340℃と記録されている。歴史的な初湯の操業日誌を表2に示した。かくして稼働を開始した1号高炉も,はじめの1年半はさして好調とはいえず,出銑量は1日600トン,コークス比は0.88程度であった。その後,昭和29年から鉱石2次破砕の実施,炉頂装入装置の改良,メタリック原料の増加などによって生産は順調に伸びた。昭和30年後半からは,月間平均の出銑量は1日900トン,コークス比は0.70を切って業界の注目を集めるようになった。このような好成績をバックアップしたものに,フリースタンディング(freestanding),オアーベッディング(ore bedding),ペレタイジング〔pelletizing〕という3つの-ingの総合的効果が考えられる。その後,安定した操業が続いた。昭和32年当時の操業状況を示すと,次のようなものであった。出銑量=950トン/日,出銑比:1.0,コークス比:O.69,鉱滓比:0.42,送風量:1400u/分,送風温度:600℃,シリコン(Si):1,00%,硫黄(S):O,05%。また複合送風技術の確立を目指して,昭和33年5月から酸素富化操業試験,同年7月からは蒸気吹込設備を完成して試験するなどの努力を重ね,出銑量は241万トンに達した。その後,1号高炉は改修を行い,昭和38年8月31日に第2次火入れを行った。さらに改修を重ねて,炉容を初期の877uから966uへと拡大して,昭和44年8月6日に第3次火入れを行った。昭和52年時点で,千葉高炉は5基をかぞえ,さらに西工場に最新鋭の6号高炉が完成していた。そこで旧式となった1号高炉は,昭和52年2月15日午前8時15分に最終出銑をし,午前11時15分に吹止められた。通算の実稼働時間は21年6カ月,通算の生産量は975万トンの実績を残して,その歴史的使命を終えた。1号高炉と6号高炉の大きさの比較を図1に掲げた。その変化は,まさに日本鉄鋼業の発展を示したものであるが,その先鞭をつけた設備として,千葉1号高炉は日本鉄鋼産業の記念碑と言える。溶鉱炉の火入れに際して,鐙入式のレンガに刻まれた揮毫を参考として表3に示した。

(5)その他の周辺環境設備

 製鉄所の稼働に重要な,水と電力の状況については前に触れたが,その他にも多くの周辺環境設備が必要とされた。まず,湾岸設備では,昭和26年9月に寒川地先に,水深3.6m,延長193mの500トン級船舶岸壁が完成した。これは主に建設用資材の陸揚げに利用された。昭和27年4月,鉄鉱石,原料受入れの正面岸壁(水深9.5m)の構築が始まり,翌28年11月には延長500m,1万トン級船舶が3隻同時接岸可能な岸壁が完成した。また,昭和28年には国内向製品出荷用の10バースが完成した。

 このように,潮干狩りで有名であった海岸が昭和47年には,水深18m,15万トン級船舶が接岸可能な工業港へと変遷しようとは,当時誰も想像できないことであった。昭和28年6月13日,4日後の1号高炉の火入れを控え待望の大型第1船として,高栄丸(1万139トン)がバンクーバー鉱石5,588トンを積載して入港した。記録では,まだ水路,港湾とも十分にできあがっておらず,水先案内人の他に,曳船3隻をつけるなどの慎重な手段を講じて,関係者の見まもるうち,無事接岸に成功した。ここに千葉港というA級国際港が誕生したのである。今日でもこの日が千葉開港記念日として祝われている。

(6)その後の千葉製鉄所の歩み

 当初,千葉製鉄所は粗鋼生産100万トン規模を目指して計画された。建設は4期に分けて進められた。第1期計画:高炉1基,平炉3基,分塊圧延機1基,第2期計画:高炉1基,平炉3基,第3期計画:ホットストリップミル1基,第4期計画:コールドスリップミル1基。1号高炉は千葉建設の第一歩にあたるものである。平炉の酸素製鋼法が予想以上の高成績を発揮したため,生産規模が年産200万トンに変更され,第3,第4高炉の建設が計画された。昭和36年段階では,広幅厚板圧延機と第2分魂圧延機が新設されて,一貫体制が完成し,206万トンの生産実績をあげるにいたった。昭和33年頃から,日本経済は岩戸景気へと移行し,鉄鋼需要は予想を上まわる急増を示した。そこで千葉製鉄所の長期合理化計画が検討され,第5高炉,転炉3基,第2ホットストリップミル,第2コールドストリップミルの建設が行われた。昭和46年時点では,年産650万トンの一貫生産体制が完成した。千葉製鉄所の合理化拡充はこのように進んだが,なお将来の需要変化に対応し,技術革新の成果を導入してスクラップ・アンド・ビルド式の合理化を図る必要があり,公害防止,環境保全の立場から抜本的対策が検討された。このため,昭和44年から同製鉄所地先海面合計396万平方メートルの埋立てを開始した。西工場と命名された新工場には,最新鋭の第6高炉,第3製鋼工場が昭和52年に稼働した。最近では,この西工場に生産集約を図る千葉リフレッシュ計画が進められ,都市型製鉄所のニーズに合致した新工場建設がスタートした。

4 おわりに

 1号高炉によって灯された製鉄の火は,昭和57年6月21日に出銑累計が1億トンを達成した。1億トンとひとくちで言うが,毎日1万トン生産し,1万日かかることになる。1万日は約30年にも相当する年月である。千葉製鉄所計画時点での全国粗鋼は,年産480万トンであり,アメリカ鉄鋼業の8,800万トンにくらべれば,まことに微々たるものであった。この時代に年産100万トンの近代的一貫製鉄所計画は,誕生したばかりの資本金10億円の会社が,所要資金総額272億円の工場を建設するものであり,当時の常識からすれば身のほどをわきまえない無謀な計画との批判も多かった。しかし,その後の日本工業の発展の歴史は,1号高炉計画が正しかったことを示している。

 川崎製鉄千葉製鉄所は,千葉県の工業化への出発点となったことのみならず,日本鉄鋼業の出発点でもあった。第1溶鉱炉の中心点,東経140度7分5秒,北緯35度34分38秒,は文字通り日本現代産業の出発点と言っても過言ではない。その成功の理由は,西山社長の哲学であった世界的視野と合理的精神が貫かれてきたことによる。千葉建設で示されたパイオニア精神は今でも生きている。原理原則,現場現物主義は今でも川崎製鉄のエンジニアの中に生きている。今また,新しい都市型製鉄所の建設により,千葉製鉄所は麗境と調和した未来の製鉄所として,21世紀をめざして変革しようとしている。

引用文献
(1) 川崎製鉄P・R誌「鐵」,1980,No102 P.18
(2) 「銑鉄生産1億トンヘの歩み」川崎製鉄X干葉製鉄所,銑鉄部,1982年6月21日

参考文献
(3) 「川崎製鉄25年史」川崎製鉄X,ダイヤモンド社,1976年4月
(4) 「千葉製鉄所建設15年の歩み」,川崎製鉄X千葉製鉄所ダイヤモンド社,1976年6月
(5) 「鉄鋼巨人伝・西山弥太郎」,鉄鋼新聞社,1971年3月