全国の近代化遺産
明治期以前の文化財に対する保護については文化財保護法によって手厚く守られていましたが,近代の文化遺産,特に産業,交通,土木にかかわるものについては文化財としての価値が認められるケースはすくなかったように思います。 近頃,文化財に対する考え方も変化し,近代化遺産に関する保存・活用について積極的な取り組みがおこなわれるようになってきました。 文化庁では1990年から近代建造物等総合調査を始めており,群馬県の「近代化遺産調査」(1992年報告書刊)以来,全国各県で文化庁の補助事業として調査を実施しています。これまで調査を終えた県は22道府県になります。 ここで紹介する写真は,すべて三沢博昭氏によるものです。 |
ふがんうんがなかじまこうもん
富岩運河中島閘門 [富山県富山市/1931(昭和6)年] |
うすいとうげだいさんきょうりょう
碓氷峠第三橋梁 [群馬県松井田町/1893(明治26)年] |
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富山市と東岩瀬港の間に運河を開削してその土砂によって廃川地を埋め立て,再開発をおこなう総合的な計画が1931(昭和6)年に開始された。富岩運河と名付けられたこの運河は延長4.8km,水位差が約2.5mあったため,船舶の航行をおこなうために中間点に中島閘門を設けた。昭和50年代には埋め立てて道路化する案が出されたが,市民の憩いの場として整備事業が行われ閘門の動態的な保存が図られた。1998(平成10)年,昭和期の土木構造物としては初めて国の重要文化財に指定された。撮影:三沢 博昭 | 工事は明治24年に開始,険しい峠を縫う11.2kmあまりの区間に英人技師ポナールの設計による26のトンネルと18の橋がある。そのほとんどが煉瓦でつくられたもので,特に「めがね橋」と愛称される第三橋梁は歯車をつけて急勾配を走行するアプト式鉄道の遺構で優雅なアーチ橋である。現在,煉瓦アーチ橋6つ,トンネルが10残っている。第三橋梁は,長さ91m,高さ31mの国内最大の煉瓦アーチ橋である。撮影:三沢 博昭 |
だんじょうばし
弾生橋 [東京都江東区/1878(明治11)年] |
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文明開化の象徴として工部省赤羽製作所によって製作された,日本初の国産鉄製の橋。かつて弾正橋は楓川に架けられ,本所・深川の主要街路を結んでいたが1929(昭和4)年に江東区富岡の八幡宮近くに移築されて八幡橋と名を変え保存されている。撮影:三沢 博昭 |
みこはたばし
神子畑橋 [兵庫県朝来町/1885(明治18)年頃] |
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兵庫県山間部に入る明延は,質のよい鉱石の産地で,生野銀山の近くである。鉱石を製錬するために明延から生野銀山に運ぶ専用道路にかける橋として建設されたのが神子畑(鋳鉄)橋で,1982(昭和57)年からの補修工事で,失われていた親柱も復元された。橋長16m,単一アーチの鋳鉄橋で桁とアーチの間に京格子風の繊細な造形に特徴がある。撮影:三沢 博昭 |
ももすけばし
桃介橋 [長野県南木曽町/1922(大正11)年] |
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福沢諭吉の婿養子で電力王といわれた福沢桃介により1922(大正11)年に建設されたJR南木曽駅近くにある4径間の吊橋である。3基の橋脚のうち中央の橋脚に河川敷に下りる石の階段を設けて川の水になじみやすいようにするとともに橋脚の 安定をはかっている。撮影:三沢 博昭 |
ほんじょうすいげんちぐんようえんてい
本庄水源地軍用堰堤 [広島県呉市/1918(大正7)年] |
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堰堤は,巾3.64m,最高部25.0m ,半径180mの円弧型の重力式コンクリート造である。この貯水池は,当時は東洋一といわれるほど大規模で,集水面積は28.4?,総貯水量は196万?との記録が残っている。堰堤の表面は,花崗岩で丹念に造られ,重厚な外観をなしている。撮影:三沢 博昭 |
藤倉ダム
[秋田県秋田市/1911(明治44)年] |
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明治期の数少ない水道用の祖石コンクリート・ダム。高さ16.3mは,明治期の同様のダムとしては,4番目の規模である。秋田市水道の水源が,1973年に藤倉水源地のある旭川から雄物川に切り替えられ,藤倉堰堤からの取水も停止された。(建設の当初から国の財政的援助を仰ぐことなく独力で造られてきた。)秋田県で全国で最初に近代化遺産総合調査が行われ,1990年に県指定を受け,ついで1993年には「近代化遺産」として全国で初の国の重要文化財として指定を受けた。撮影:三沢 博昭 |
はくすい________
白水ダム [大分県竹田市/1938(昭和13)年] |
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白水ダムは竹田市と荻町にまたがる農業用水利施設で,1938(昭和13)年に完成した。この白水ダムは流れ落ちる水の姿がまわりの景色とマッチして独特の景観を作り出している。白水ダムの表面は石を張り,緩やかな曲線を描いているため流れ落ちる水の姿がまるで白いじゅうたんを敷きつめたように見える。農業用に作られたダムであるが,この美しい景観は,まるで観賞用に建造されたものと錯覚しそうである。撮影:三沢 博昭 |
よみかきはつでんしょ
読書発電所 [長野県南木曽町/1923(大正12)年] |
きゅうやおおづはつでんしょ
旧八百津発電所 [岐阜県八百津町/1911(明治44)年 |
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1923(大正12)年に,関西方面での電力需要の高まりと,長距離高圧送電技術の進展にともなって建設された。当時としては,国内最大の出力を誇り,水路式発電所の最盛期を飾るものであった。発電所の中枢施設の構成は,山腹の高所に設けた貯水槽,斜面を這うようにのびる長大な圧力鉄管,川際に建つ本館からなっている。現在も発電所として機能し,生きている産業施設であって文化財に指定されたものとしては初のものである。撮影:三沢 博昭 | 名古屋電力Xが名古屋市に送電するため,加茂郡八百津町の木曽川に建設した最初の発電所。煉瓦コンクリート造の2棟建。当時,最高電圧66kVの発電所で,木曽川発電所といっていた。1917(大正6)年に放水口発電所を付設し八百津発電所と改名する。1974(昭和49)年新丸山発電所の竣工で運転を休止し,53年間にわたる水力発電の役割をはたした。現在,旧八百津発電所資料館として保存されている。撮影:三沢 博昭 |
みついみいけたんこうみやはらこう
三井三池炭鉱宮原坑 [福岡県] |
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第1,2竪坑と櫓及びそれらの巻揚機室,排水ポンプ室から成る。本坑は,採炭とともに官営時代以来の主力坑の排水を使命として開坑された。大正時代には,各施設が拡大するとともに電化が進められたが,恐慌期の1931(昭和6)年に閉坑し,諸施設は転用ないし解体された。しかし第二竪坑は,坑道の排水のために1997(平成9)年3月まで稼働し,今日,第2竪坑,櫓,巻揚機室,坑内トロッコ線路跡,排水路等が良好に遺存しており,このうち櫓と巻揚機室が1998(平成10)年5月に国重要文化財に指定された。撮影:三沢 博昭 |
みついみいけたんこうまんだこう
三井三池炭鉱万田坑 [熊本県荒尾市/1902(明治35)年] |
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炭坑施設の中心部分にあたるのは,第2竪坑の櫓と煉瓦造りの巻揚機室で,櫓の下には坑口があり,巻揚機室のモーターで坑内への昇降機を上下させる仕組みになっている。石炭産業は,第二次世界大戦後の1955(昭和30)年代における石炭から石油へのエネルギー政策の転換等により,歴史的役割を終えたものである。したがって,多くの炭坑施設が姿を消した今日において,わが国近代の主要なエネルギー産業であった炭坑の遺跡が保存され後世に伝えられることは,きわめて意義ある。撮影:三沢 博昭 |
しもつけれんがせいぞうかぶしきがいしゃ かま
下野煉化製造株式会社ホフマン窯 [栃木県野木町/1889(明治23)年] |
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奇抜なデザインのこの建物は,旧煉瓦工場で全国に数基残されているうちの1基である。1890(明治23)年に建造されピーク時には年間300万個の煉瓦を生産し当時の建築物洋風化に伴う急激な需要に応じた。本体は平面が十六角形で周囲100m,八角形の煙突の高さは焼く32m。燃料の炭をレールで移動させ連続焼成を可能にした。東京駅の煉瓦はこの窯で焼き上げられたと言われている。1971(昭和46)年まで現役として活躍していた。撮影:三沢 博昭 |
よっかいちしきゅうこうこうわんしせつ
四日市旧港港湾施設 [三重県四日市市/1894(明治27)年] |
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明治の港湾の姿を留める四日市旧港は,建設以来大きな環境の変化に耐え,現在でもその面影を見せてくれる。三重県は1893(明治26)年の四日市港防波堤の再建工事について,当時町書記の加藤善四郎を工事監督として,工事を請け負ったのは服部長七である。服部は人造石を発明し,土木工事などに大いに活躍した。波から受ける力を少なくするための「潮吹穴」をもつ特異な防波堤で日本で唯一,また世界でも極めてまれである。撮影:三沢 博昭 |
びわこそすいなんぜんじすいろかく
琵琶湖疎水南禅寺水路閣 [京都市左京区/1890(明治23)年] |
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琵琶湖疎水は,大津市美保ヶ崎の琵琶湖畔から伏見で宇治川に注ぐ近代を代表する疎水である。工事は主任技師,田邊朔郎の指導の下に1885(明治18)年6月に第一隧道から着工し1890(明治23)年に第一期工事が終了した。第一隧道開削に用いられた竪坑工法,蹴上の水力発電,インクラインは当時のわが国初の技術であった。西欧の近代土木技術を学んだ日本人技術者の手による,大土木工事であり明治中期における土木水準の到達点を示す画期的な事業として大きな意義を持つ。撮影:三沢 博昭 |
とうきょうえき
東京駅 [東京都千代田区/1914(大正3)年] |
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ルネサンス様式の鉄骨煉瓦造3階建,建坪3,183坪,丸屋根はドーム形状。当時,建築界の最高権威であった辰野金吾の設計により6年9ヶ月をかけて完成した。工費は当時の金額で280万円,開業は完成6日後の1914(大正13)年12月20日。資材は鉄骨のみ輸入品を使用したが他は全て国産品で建設された。今でも,現役で使用されており,ホール等は展示会等のスペースとして活用されている。撮影:三沢 博昭 |