みのわこうちせいりくみあいようすいかだい

6 箕輪耕地整理組合揚水架台


君津市

産業関係・農業・揚水施設

内径40mm,延長2.2km
1929(昭和4)年

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で,君津市も大きな被害を受けた。住宅の被害が70%を越えた村もあり,市域でも旧中,八重原,貞元の3村では30%を越える家が被害を受けた。

水田はいたるところに亀裂が入り,階段状になり,耕地整理組合等により国・県の補助を受け懸命な復旧がなされた。しかし,復旧は遅々として進まず,1927(昭和2)年の君津郡農会の旱害調査によると,君津郡全体で植付け不能水田262ha,植付け後枯死104ha,収穫半作454ha,用水不足3,833haとなっている。

小櫃地区,箕輪地区は関東大震災に遭遇し,箕輪地区唯一の貯水池(長堰)の水源の湧水が減水したため,年々植付け不能地を出した。1927(昭和2)年に至っては全く枯渇し,20有町歩の美田は作付け不能となり,たちまちにして茫漠たる原野と化した。かろうじて,粟,大豆,さつまいも等を植付け,飢餓をしのいだといわれている。

そこで,小櫃川から揚水することに決定し,1927(昭和2)年に耕地整理組合を設立し,即刻工事に取りかかった。工事は,揚水機場を建設し,内径400mmのコンクリート管を1.2kmにわたり埋設し,鉄道を横断し,続いて1kmの開渠水路を建設する計画であった。

地元の明倫青年会が,この大事業を自らの手で完成させようと建設に努力した。素人集団の工事のため試行錯誤の連続であったと言われている。特に鉄道横断工事は,最終列車通過後に開始し,始発列車前に作業を終了させるという大変な作業であった。コンクリート管渠は,現在のような印篭継手ではなく,太さの同じ管であっため,地元の鍛冶屋で作らせた幅6cm程度の鉄製のバンドで締めてつなぎ合わせている。

小櫃川の水をポンプ場まで開渠で河川敷内を導き,ポンプで揚水し,約2km先の農地まで運んでいる。ポンプ場まで開渠で水を導いたのは,下流側の農業団体との調整の結果とされている。架台には,圧力調整と空気抜きを兼ねた高さ12mの塔が立っていたが,1996(平成8)年の台風で倒れてしまった。空気抜きは,管路の途中の高いところに2ヶ所設けており,空気と共に水も噴出していた。

発動機は質の悪い重油でも動く35馬力の焼玉エンジンを使っていた。トーチランプで約1時間かけて焼玉を真っ赤になるまで熱し,小型の焼玉エンジンを3人がかりで始動したあと,本エンジンを始動した。戦後になると,燃料確保の問題もあり,1948(昭和23)年に電気モーターに切り替えた。揚水は朝方に開始し,夕方まで運転していた。これを管理する役員は大変苦労したと思われる。この揚水施設は1964(昭和39)年まで稼働していた。

(金成英夫)

地形図 「久留里」(略)

写真6-1 箕輪揚水架台全景 (1997年)

写真6-2 架台の上の揚水塔
高さ12m,1985年頃 (君津いまむかしNo.27より)

写真6-3 揚水出口(左手のハンドルは水量コントロール装

置,現在(1997)は別系統からの水を吐出している)

図6-1 箕輪耕地整理組合揚水架台略図

参考文献

1) 太田隆:君津いまむかし(No.27),広報君津,No.289,1995年


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