民間企業創業に関する記念碑


   身分制の撤廃、職業選択の自由が与えられたことにより、さまざまな種類の起業が進みます。また、明治政府が大量生産を行うために、建設した官営工場の経営状態の悪化に伴い、民間への払下げが行われました。

22-1本邦セメント工業発祥之地

22-2本邦セメント工業発祥之地

本邦セメント工業発祥之地
<東京都江東区清澄1>
 国産セメントは、明治8年(1875)深川清住町に建造された官営セメント工場で造られました。15年(1882)には浅野総一郎に払い下げられ、渋沢栄一と共同で出資する形で「匿名組合 浅野工場」が発足しました。

【碑文】
本邦セメント工業発祥之地
此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大 蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建 設セリ 同七年工部省ノ所管トナリ深川製作 寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ 湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル 製品ヲ得タリ 明治十年一月深川工作分局ト 改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同十六年四 月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場 ト称スルニ至ル 明治三十一年ニ月浅野セメ ント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同三 十六年十一月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業 愈盛大トナレリ 大正元年十月組織ヲ改メ株 式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ 蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ 同時ニ又当社発祥ノ地タリ 仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス
     昭和十二年七月八日
        浅野セメント株式会社
           社長 浅野総一郎
23東京瓦斯・創業記念碑

東京瓦斯・創業記念碑
<東京都港区海岸1>
 日本における最初の都市ガスは、明治5年(1872)、横浜の豪商 高島嘉右衛門が横浜瓦斯会社を設立し、横浜においてわが国最初のガス灯を点灯しました。東京ではここに工場を建設し、後に東京瓦斯に吸収されました。

【碑文】
創業記念碑
帝都瓦斯事業ハ其初メ官営トシテ計画セラレ 此地芝浜崎町ニ瓦斯製造所ノ建設セラレタル ハ明治六年十二月ニシテ瓦斯供給ヲ開始シ銀 座街灯ニ瓦斯燈ヲ点火シ行人ヲシテ驚異ノ眼 ヲ瞠ラシメシハ其翌年ノ事ナリ後民営ニ移サ レ明治十八年十月ニ創立セラレタル我社ハ此 地ニ於テ事業ヲ継承セリ爾来物換ハリ星移リ 我社ハ他ニ移転シ瓦斯製造所モ廃毀セラレタ リ本年創立五十周年ヲ迎ヘ此地ノ嘗テ瓦斯供 給ノ本源地ニシテ且ツ我社創業ノ地タリシヲ 憶ヒ当時ノ構内一隅ニ此碑ヲ建テ由来ヲ誌シ テ記念トス
昭和十年十月一日 東京瓦斯株式会社 取締役社長 井坂 孝


当館所蔵の関連資料
絵はがき「明治43年8月大洪水の実況」より「深川瓦斯会社」
24銀行発祥の地

銀行発祥の地
<東京都中央区日本橋兜町>
 日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しました。

【碑文】
銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1873年) わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります
      昭和38年6月建立


当館所蔵の関連資料
換金札
半銭銅貨
一銭銅貨
二銭銅貨
25日本最初の機械製糸場跡

日本最初の機械製糸場跡
<群馬県前橋市住吉町1>
【碑文】
明治三年
日本最初の 機械製糸場跡

【碑文横】
 群馬の地は、古くから養蚕、製糸の業が盛んであったが、前橋はその中心をなしていた。偶々安政六年(1859)横浜開港とともに生糸貿易が開始されるや、当時の前橋藩は特に製糸の改良発展に意を用い、速見堅曹が専ら事にあたって、早くも明治三年、スイス人ミューラーを神戸から招き、市内を貫流する広瀬川の水を水車による動力源としてこの細ヶ沢町に製糸機械を備え、藩立の前橋製糸所を設立した。実にわが国最初の洋式機械製糸工場である。その後前橋は、製糸の業いよいよ隆昌を極め生糸の町としてよくその名を海外にまでうたわれ、隆々発展して今日の県都を築くに至ったものである。よってその旧地に記念塔を立て、永く伝えようとするものである。


当館所蔵の関連資料
座繰り
桑切り包丁
蚕用木皿
桑ざる
養蚕籠(エビラ)
26日本国新聞発祥之地

日本国新聞発祥之地
<神奈川県横浜市中区山下町>
【碑文】
日本国新聞発祥之地
日本における新聞誕生の地
 ここ、横浜の元居留地141番は、1864(元治元)年6月28日、ジョセフ彦が、「海外新聞」を発刊した居館の跡である。
 彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「童子にも読める」新聞精神を提唱した。読みやすく、判りやすい新聞を、創世記の日本の新聞界に植えつけた新聞の父・彦 の功は大きい。
 さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬など多くの人びとに民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人であった。
    1994(平成6)年6月28日
    「海外新聞」発刊130年記念日に
 ジョセフ彦記念会


当館所蔵の関連資料
総房共立新聞第1〜6号
郵便報知新聞第3021号
千葉新聞創刊号8月〜10月
國民新聞埼玉版写し
27活字発祥の碑

活字発祥の碑
<東京都中央区築地1-12-1>
 幕末に長崎奉行所のオランダ通詞・本木昌造は印刷および活字に魅せられ、日本語の活字を開発しました。その門人 平野富二は明治6年(1873) 東京に進出し、東京築地活版製造所を興し、活字だけでなく印刷機械なども製作販売しました。

【碑文】
活字発祥の碑
明治六年(一八七三)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し、後に株式會社東京築地活版製造所と改稱日本の印刷文化の源泉となった

【碑文裏】
昭和46年(1971)6月 建設
発起人 全日本活字工業会
東京活字協同組合 協賛
印刷工業工業会
全日本印刷工業組合連合会
東京都印刷工業組合
(土地所有者) 株式会社懇話会館
28日本初の民営洋式造船所 発祥の地

日本初の民営洋式造船所発祥の地
<東京都中央区佃2 石川島公園内>
【碑文】
日本初の民営洋式造船所発祥の地
米国ペリー艦隊が来航した1853年(嘉永6年) 幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人に よって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建 造, 造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。 明治維新後の1876年(明治9年) 平野富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後1889年(明治22年)には渋沢栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治か ら大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は 1939年(昭和14年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。
その後, 石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、1979年(昭和54 年)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。


当館所蔵の関連資料
写真「丸太を鋸で引く作業風景」
写真「造船所内作業風景」
写真「「造船作業風景」
29-1化学肥料創業記念碑

29-2化学肥料創業記念碑

29-3化学肥料創業記念碑

化学肥料創業記念碑(尊農の碑)
<東京都江東区大島1>
 明治20年(1887)、高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝などによって、国産初の化学肥料製造会社・東京人造肥料会社が創業します。 その後、他社と合併し、大日本人造肥料株式会社に商号変更、昭和12年に日本化学工業株式会社に資産等を譲渡し、日産化学工業株式会社に改称しました。2018年に、社名を日産化学株式会社に変更しています。

【碑文】
東京都釜谷堀公園 昭和19年5月開園
本園地タル釜屋堀ノ一帯ハ明治20年(1887)2月我國化学肥料製造ノ嚆矢タル東京人造肥料会社創業ノ地ニシテ近代農業ノ発達ニ多大ノ寄與セシ由緒アル處ナリ
  茲ニ化学肥料事業ニ盡瘁セラルル有志相諮ラレ永ク此地ヲ記念スベク用地二百五十餘坪ヲ本都ニ寄附セラル今ヤ公園施設成リ開園ニ際シテ其由来ヲ刻シ寄贈者ノ芳志ヲ後世ニ傳フ
 東京都 昭和19年(1944)5月開園

【碑文】
尊農
先覚 渋沢栄一 益田孝等ノ諸氏ハ 維新当 初ニ於テ 我カ国運ノ躍進ハ必スヤ人口 ノ激増ヲ来シ 食糧問題ハ 実ニ邦家将来 ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ 農業ノ発 達 ト肥料ノ合理的施用トニ因リ 之カ増 収ヲ企図スヘキ堅キ決意ヲ為シ 欧米ニ 於ケ ル化学肥料ノ研鑽者タル 高峰譲吉 氏ノ協力ヲ得テ 明治二十年 初メテ此ノ 地ニ 東京人造肥料会社ヲ設立シ 過燐酸 肥料ノ製造ヲ開始セリ 是レ我国ニ於ケ ル化学 肥料製造ノ嚆矢ナリ
本事業ハ 官民ノ協力二因リテ漸次進展 シ 後更ニ 空中窒素固定工業ノ勃興スル ニ 及ヒ 農業生産ノ飛躍的増収ニ絶大ナ ル貢献ヲ為スニ至レリ 今ヤ曠古ノ非常 時局 ニ際会セルモ 能ク一億国民ノ食糧 ハ 蓋シ化学肥料ノ発達普及ニ負フモノ 多シト 謂フヘシ
同社ハ後ニ 大日本人造肥料株式会社ト 改称シ 此ノ地ハ 釡屋堀工場 トナリシモ 不幸大正十二年ノ関東大震災ニ壊滅シ 爾来二十星霜ノ久シキ寂トシテ 之ヲ顧 謀 リ 碑ヲ其ノ址ニ建テテ 由来ヲ刻シ 永 ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ 我国農業ノ興 隆 ヲ期シ以テ 皇国ノ盛運ヲ奉頌ス
昭和十八年十一月
化学肥料創業記念碑建設会

【碑文】
化学肥料創業記念碑
植物が栄養とする肥料の成分は 窒素 燐酸 加里か主てあって 之を三要素と称へ窒素は主として葉を燐酸は果実を加里は幹根を形成するものてある 肥料には 古来 動植物質の腐熟 したものを多く用ゐたか 近代科学の発達は 化学的 に 窒素 燐酸 加里の各肥料を多量且つ廉価に生産することに成功し 是に依って 農作物等の収穫は画期的躍進を見るに至った。此の處一体は 実に我国化学肥料の先駆たる 過燐酸 石灰製造工業創始の地てある。


当館所蔵の関連資料
[ハがキ]肥料出荷報告
『農具便利論』
豆粕削り
30日本洋裁業発祥顕彰碑

日本洋裁業発祥顕彰碑
<神奈川県横浜市中区山下町>
【碑文】
1863年 (文久3年) 英国人ミセス・ピアソンが 横浜居留地97番にドレス・メーカーを開店したのが 横浜の洋裁業の始まりである。その頃から 在留西洋婦人は自家裁縫のため 日本人袋職人・和服仕立職人を入仕事として雇い、これにより婦人洋服仕立職人が育った。以来130有余年、先人達の偉業を称え、その精霊をモニュメントに表徴して 永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する。
1995年 (平成7年) 11月24日


当館所蔵の関連資料
中折れ帽
外套(マント)
婦人コート
31靴業発祥の地

靴業発祥の地 碑
<東京都中央区入船3-2-10>
【碑文】
靴業発祥の地
明治3年(1870)3月15日西村勝三が伊勢勝・造靴場を創設したのは旧築地入船町5丁目1番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、ときの兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫(ほったまさとも)並びに渋沢栄一の支援を得て、靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでここに建碑事績を記す 昭和60年(1985)3月15日 日本靴連盟 題字 堀田正久 書
32国産マッチ発祥の地

国産マッチ発祥の地
<東京都墨田区江東橋1-7-14 両国高校内>
 明治9年(1876)に清水誠が本格的な国産マッチ製造会社、新燧社(しんすいしゃ)を創業し、本所に工場を新設しました。日本はスウェーデンとアメリカと並ぶ、世界の3大マッチ生産国になり、一時は日本の総輸出額の25%をマッチが占めましたが、明治中期には粗製濫造で輸出が激減しました。


当館所蔵の関連資料
マッチ ライオンマーク
復興マッチ
33-1日本最初の麦酒工場

33-2麒麟麦酒開源記念碑

日本最初の麦酒工場(麒麟麦酒改源記念碑)
<神奈川県横浜市中区千代崎1>
 明治3年(1870)にアメリカ人ウィリアム・コープランドが、横浜にビール醸造工場を建設します。明治18年(1885)に、日本人・外国人の連名によりこのビール会社を継承し、ゼ・ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテツド会社が経営します。明治40年(1907)に麒麟麦酒株式会社(現・キリンビール株式会社)がその事業を引き継ぎました。

【碑文】
文化遺蹟 日本最初の麦酒工場

【碑文】
麒麟麦酒開源記念碑
安政5年 徳川幕府が独断専行して国を開くや 欧米人続々として横浜に来りしが 彼等は 居留地と称せらるゝ一区域の中に居住す 天沼は此居留地に属し 徽章斜に連り 高大短 樹其間を点綴し 清泉渡々として崖下に湧き 気清く風軟かに 一福春国の画の如し 明治 5年 米人ダブリウ・コープランド 此処に工場を建設し スプリング・ヴァン・ブリユフリ ーと称して麦酒を醸造す 是れ日本に於ける麦酒醸造の開源にして 今日の麒麟麦酒株 式会社の前身なりとす 明治18年 五島象二郎伯 岩崎弥之男 増島六一郎博士 渋沢栄市子 益田孝男 カークウツド, グラバ, ベルツ, カールコーデの諸君唱首となって同志を 糾合し ジャパン・ブリュワリー・コンパニーと称する合資会社を起して スプリング・ヴ ァンー・ブリュワリーの事業を継承し始めて 其醸造する麦酒に 麒麟麦酒 と命名す 明治 29年 更に之を株式会社に改め ゼ・ジャパン・ブリュフリー・コンパニー・リミテツドと 命名し 前年香港政庁に登録したる事業を 日本政府に登録す 明治40年 豊川良平 近藤鷹 平男 米井源治郎 郭公住震 田中常徳 高木豊三 高田正久 草郷清四郎 今村繁三 磯野長蔵等 の諸君主唱して 麒麟麦酒株式会社を起し ゼ・ジャパン・ブリユワリー・コンパニー・リ ミテッドの事業を継承して 以来資本を増加して事業を拡大し 天沼工場のみにても地 域7,398坪に達せしが 大正12年の震災に遭ふて工場を鶴見に新築し 之より更に事業を 伸張し 満州朝鮮にまで分工場を増設す 其初居留外国人の需要に応ずるがために 醸造 せられたる麒麟麦酒は 其風味と香■により国民的飲料になりて 全国に弥浸し 外国品 の輸入を防通するのみならず 却って外国に輸出せられるゝに至る 始めて日本の土を 踏む外国人等 甕中の玉液を汲み 屋内の金波を傾け置らざりき 日本またミュンヘンビ ールあり ガムブリナスの神は 扶桑の地をも祝福するかと嘆賞するに至る 麒麟麦酒の 発達の跡を見るに 一粒の種子が成長繁茂して 亭々たる祭典の大樹となり 朝暉を受け ては立後を掩ひ 夕日を負ふては江海を翳ふに至るが如し 今麒麟麦酒株式会社が其の 発祥の地たる天沼に 記念碑を建つるに会ひ 文を撰して其事を誌るす 之を読む者必ら ず麒麟麦酒株式会社発建の歴史は 日本国勢開展の歴史と其軌を一にするを感ぜん
          昭和12年19月      竹越與三郎撰  野本白霊書



当館所蔵の関連資料
エビスビール箱
商標貼込帖
アサヒビールラベル
サクラビールラベル

その他

上記で挙げていない、文明開化について知ることができる当館所蔵の資料を、紹介します。


当館所蔵の関連資料
東京新繁昌記