第17回 高瀬船の帆

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↑ 当館4階手すりにつり下がっている高瀬船の帆


  今回紹介する資料は、野田市関宿台町のお宅から寄附された高瀬船の帆の一部である。この一帯の農家は以前はほとんどが舟運業に従事していたが、昭和初期頃には皆廃業していった。高瀬船は大型であったため、部材もほとんどが廃棄された。ただ、この時舟運から養蚕に転向した農家が多く、この資料は蚕の風除け囲い用として別の用途を果たすために偶然残されたのである。
  高瀬船の帆のことを、地元では「マツエム」と呼んだそうだが、これは「松右衛門帆」のことである。江戸時代中期頃まで、船の帆はムシロなどを繋いだり木綿の布を二枚重ねた大変重いものであった。しかし、天明五年(一七八五)、播磨国の船頭、松右衛門が画期的な帆を発明した。木綿の経糸と韓糸をそれぞれ二本取りで織り上げることにより、これまでよりはるかに丈夫で軽い帆が実現したのである。この帆は幅が二尺五寸(約75cm)と規格が決まっており、これを何枚も横に繋ぐことで、いくらでも大きな帆とすることができた。高瀬船の場合は、五反帆から十二反帆くらいのものがあったようだ。
  さて、本資料の場合、蚕の風除けとして使いやすいよう、二反分だけが切り離されて残されていたが、本来は更に何枚も繋いでいたのであろう。つなぎ目は、全部縫い付けずにところどころを留めて、適度に風が抜けるようになっている。
  広げると全長は13m93cmにもなる。現在当館の天守閣階段室に展示しているが、ほぼ一階の床から四階までギリギリである。したがって高瀬船に帆掛けた時には大体四階建てのビルを仰ぎ見る感じになったことだろう。この巨大な帆掛け船が利根川を何艘も行き交う、それが六、七十年前までの日常風景だったのである。

(学芸課 榎 美香)


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