![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
![]() |
|
註 | |
(1) | 備後福山藩で寛永7年(1630)に藩札を発行したとの記録があるが、藩札自体は未発見である。鹿野嘉昭「委託研究からみた藩札の流通実態」『金融研究』15-5、1996年等を参照。 |
(2) | 作道洋太郎「近世農村社会にみられる信用通貨の問題―関宿藩伏尾領を中心として―」『日本貨幣金融史の研究』1961年(以下作道論文と略す)、『堺市史続編第1巻』1971年(以下『堺市史』と略す)、国立史料館編『江戸時代の紙幣』1993年、ほか。 |
(3) | 拙稿「博物館資料―関宿藩藩札―」(千葉県立関宿城博物館報2号1996年)において飛地札2種と本領地札1種(一匁)を紹介しているが、その時点では本領地五分札の存在は未確認。 |
(4) | 『堺市史』。 |
(5) | 堺市には「久世小学校」のような藩主久世氏にちなむ名称が現在も残されている。 |
(6) | 永禄元年5月24日付北条氏康書状「喜連川文書」(『古河市史』資料中世編970号文書)。 |
(7) | 特に宝暦期から天明期にかけての水害で幕府より復旧費として合計2万両の貸与を受けた(『徳川実記』、奥原謹爾『関宿志』1973年関宿町教育委員会)。 |
(8) | 作道論文及び『堺市史』。なお、飛地札の考察についてはこれらの成果に依拠するところが大きい。 |
(9) | 作道論文、『日本史総覧W近世1』1984年、ほか。 |
(10) | 拙稿「利根川水運と関宿の河岸―関宿三河岸の繁栄―」『産業考古学会第21回総会研究発表講演論文集』1997年。 |
(11) | 岩橋勝氏は但馬出石藩の具体的事例を紹介している。「ワークショップ『江戸時代における藩札の流通実態』の模様」『金融研究』15-5、1996年参照。 |
(12) | 椎名仁・渡辺貢二『猿島茶に生きる』1977年、茨城県茶生産者 組合連合会『茨城の茶業史』1989年。 |
(13) | 檜垣紀雄「藩札の果たした役割と問題点」『金融研究』8-1、1989 年で福井藩を例にして藩専売制下の藩札発行の効果について考察 している。 |
(14) | 岩淵令治「江戸における関八州豪商の町屋敷集積の方針と意義 ―関宿干鰯問屋喜多村壽富著『家訓永続記』を素材に―」(『近世の社会権力―権威とヘゲモニー―』所収、1996年)において、同家の江戸進出について詳細な分析がなされている。 |
(15) | 「大和守さま(関宿藩主久世氏)五万石、喜多村さま十万石」 「お江戸日本橋の飛地」等の評判が立った(奥原前掲書)。 |
(16) | 奥原前掲書、喜多村常次郎『西関宿誌』(私家版1967年)ほか。 |
(しまだ ひろし:千葉県立関宿城博物館研究員)