史料にみる火縄銃
(1)古文書にみる火縄銃
 火縄銃が伝来してまもなく火縄銃をたくみに撃つ技術を身につけた者がうまれました。砲術家といいます。江戸時代を通じてその数は200家にもおよぶとされています。諸大名は鉄砲上手の者を高禄で召し抱え、家臣に学ばせました。砲術は武士のたしなみの一つとして学ばれるようになります。
 砲術家は、しばしば大規模な実射訓練を催し、その存在をアピールしました。また、多くの秘伝書がのこされています。
江戸時代の主な砲術流派
稲 富 流  稲富伊賀守祐直が慶長(1596〜1615)に始まる。最も古い流派の一つで、徳川家康・浅野長政・井伊直政などを弟子とした。
井 上 流  井上外記正継が元和期(1615〜1624)ごろ始めた流派。外記流ともいう子孫は江戸幕府の鉄砲方を勤める。
荻 野 流  荻野六兵衛安重が寛文期(1661〜1673)に始めた流派。子孫は大坂で流派をひろげた。各藩から入門者が多く、江戸時代を通じて最も流行した。
霞   流  丸田九左衛門盛次が江戸時代初期に始めた流派。米沢藩に代々伝承され、10匁以上の比較的大口径の銃を使う。
関   流  関之信が寛永期(1624〜1644)に初めた流派。久留里藩主の土屋氏に仕えた。後に常陸国土浦と江戸で伝承される。 大筒の射撃が有名。
高 島 流  高島四郎太夫秋帆が天保期(1830〜1844)に始めた流派。オランダから西洋砲術を取り入れ、西洋的な軍制を整備した。
田 付 流  田付景澄が慶長期(1596〜1615)に始めた流派。景澄は稲富祐直・安見右近と並び鉄砲の三名人といわれ、子孫は江戸幕府の鉄砲方をつとめる。
津 田 流 津田堅物算長が南蛮人から伝授された、という最も古い流派の一つ。紀州(和歌山県)を中心に全国に伝わる。
天 山 流  阪本孫八郎俊豈が安永期(1772〜1781)ころから始めた流派。荻野流増補新術ともいう。有名な周発台を発明し、近代的な銃隊戦術を生み出した。
中 島 流  中島太兵衛長守が江戸時代中期に始めた流派。武衛流・自得流・佐々木流などの流派を折衷した。棒火矢などをよく使った。
@ 火器砲術絵巻
棒火矢(ぼうびや)や地雷などさまざまな火器類の種類を記したもの。
A 荻野流大筒目録
安政二年(1855)桜井貞三が杉浦鐵之助に与えた、大筒製作、打方等を記した目録。
B 荻野流小筒目録
安政二年(1855)桜井貞三が杉浦鐵之助に与えた、小筒の打方作法等を記した目録。
C 荻野流鉄炮印可状【おぎのりゅうてっぽういんかじょう】
安政六年(1859)荻野流砲術家 桜井貞三が杉浦鐵之助に与えた、小筒習得の印可状。
D 鉄砲打方様集
鉄砲の目当極意が記され、秘伝とされています。
E 抱棒火矢討方諸業【かかえぼうびやうちかたしょぎょう】
棒火矢とは木の棒に羽を付け、先端に火薬を巻き付けて火を吹きながら飛ばすもの。
本資料はこの棒火矢の打ち方を記したもの。

(2) 鉄砲小道具
 火縄銃を発射するには様々な道具が必要です。これを鉄砲小道具といいます。それぞれが火縄銃と同じように工作の丁寧さや、日本的な美しさをもっています。ここでは、それらについて紹介します。
 @ 鉄砲掛け
上総佐貫藩士が使用したもの。
 A 玉型
溶けた鉛をペンチのような玉型へ流し込んで円弾をつくります。
 B 鉛玉
玉の重さで一匁筒(口径8.7mm)より、一貫匁筒(口径87mm)までありました。
二匁から三匁位が一番多く使われました。
 C 火薬入れ
  日本は湿気が多いので火薬を保管したり運んだりするのに気をつかいました。
キャップ式のふたになっています。
 D 口薬入れ
口薬は火皿の穴に盛り、引金を引くと着火するためのもので、着火をよくするため粉状になっていました。
 E 玉入れ
火薬は火薬入れ、玉は玉と別々に所持する際に使いました。玉の大きさで別々の玉入れを用いました。
 F 胴乱【どうらん】
火薬、玉、口薬入れ、早合などを入れる小さなカバンで、腰に付けたり紐で肩から掛けたりしました。
 G 早合【はやごう】
射撃の速度を上げるために、一本の筒に玉と火薬をセットしておくもののことを早合といいます。
 H 弾箪笥【たまだんす】
引き出し式になっていて射撃に必要な様々な道具を入れます。