《ローマ》三宅克己 大正9(1920)
紙・水彩・縦 33.0cm 横 49.8cm
【千葉県立美術館蔵】
《美濃養老公園》三宅克己  制作年不詳
紙・水彩・縦 33.4cm 横 45.2cm
【千葉県立美術館蔵】
《塚本靖》和田英作  明治34(1901)
キャンパス・油彩・縦 44.2cm 横 36.5cm
【千葉県立美術館蔵】
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■ 画学専門学校 明治17年(1884)開校〜翌年廃校

 工部美術学校が廃止されると、せっかく発達しかけてきた西洋画の命脈を途絶えさせてはいけないと堀江は考え、工部美術学校同窓の曽山幸彦、松室重剛と美術教育の場の提供を政府に働きかけます。しかし、それは受け入れられず、翌明治17年に自分達で東京の番町に「美術会」という研究団体を作るとともに私塾「画学専門学校」を開きます。
 曽山が工科大学博物館に勤めていた事と、工部大学長が工部美術学校長を兼ねていた事もあり、旧工部美術学校の備品や標本等を借り、西洋画、用器画、透視画、解剖学等を教えました。しかし、経済的困難と、参考品の管理が工部省から文部省に移って借用が不自由になり、1年で廃校となります。

■ 大幸館 明治25年(1892)開設〜明治30年(1897)

 堀江は郷里の長野に帰り、道徳教育のための肖像画制作を行います。松室は明治18年に千葉中学校に赴任。曽山は大野家に入って大野姓を名のり自宅で私塾を開き、永田町の庭にも教室を作って画学専門学校からの弟子を育成しました。塾はわずか30〜40坪でしたが、後の洋画界を背負った岡田三郎助、和田英作、中沢弘光、三宅克己、藤島武二、北澤楽天、高木背水らがここに学びました。しかし馬車馬式と揶揄されたほど情熱的で厳格な指導を行った大野は、明治25年に病死します。

 弟子の玉置金司、岡田三郎助、中沢弘光らは塾を再興することにし、堀江を呼んで教師とします。ここで堀江は毎週2回講義をし、当時、学習院教授となっていた松室重剛を顧問に、玉置金司は助教授として毎日教えました。塾は大野幸彦の名から「大幸館」と名付けられました。大幸館も経済的に苦しく、堀江は無料奉仕の上、塾維持のため、各国大使館の依頼による仕事を受けていたといわれますが、現在作品の所在は分かっていません。

 堀江は大幸館で色彩の原理を教えていました。弟子の岡田三郎助は、大幸館時代に色彩の配合について、堀江にこっぴどく叱られたが、それが修行の上で非常に役立って、黒田に就いて印象派の油画を教わったおり少しの困難もなく、呑み込んでいけた。と語っています。
 東京美術学校に西洋画科が設けられ、黒田、久米が教師になると、堀江は大幸館の弟子達を送り出しました。
岡田三郎助、和田英作、藤島武二らは助教授となり、中沢弘光、矢崎千代二は生徒として入学。黒田の白馬会研究所には高木背水が入所しました。しかし、堀江と黒田は知り合いだったわけではなく、初対面はずっと後の、大正11年の文展会場でした。

画学専門学校医時代〜大幸館時代

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