《富士遠望》松室重剛  制作年不詳
紙・色鉛筆・縦 22.8cm 横 28.9cm
【千葉県立美術館蔵】
《渓谷》松室重剛  制作年不詳
紙・鉛筆・縦 18.8cm 横 14.2cm
【千葉県立美術館蔵】
 
前へ
 

 明治11年、20才の時、東京虎ノ門の工部大学で数学を学ぶため上京しますが、同年12月、工部大学敷地内に付属していた日本初の官立美術学校、工部美術学校に入学。美術学校を選んだ動機は不明ですが、工部美術学校は政府の殖産興業政策に従い、測量術、土木建築設計等の実用教育を主目的に創設されたので、方向転換ではなかったようです。
 同校は明治9年にイタリアから洋画のフォンタネージ、用器画(平面や立体の図形を、平面上に正確に描くための作図法を指す)、装飾術、水彩画のカペレッティ、彫刻のラグーザの3人を教師に招きました。堀江は、この学校のことを、それまで個人の画塾で洋画を学んでいた人達が、この学校に入学して初めて専門の外国人教師から、規律ある統一ある教育を受けることが出来たと後に語っています。

その後、政府との意見の相違や脚気の患いもあり、フォンタネージは赴任2年目の明治11年9月に帰国。同年、政府が後任としたイタリア人フェレッティは、指導力・品性等の点で生徒側から排斥運動が起こった挙句、浅井忠ら11人の生徒の方が退学させられます。堀江の入学は、その後で、当初、フェレッティに学び、サン・ジョバンニに落ち着くまでの1年2か月を自習しながらカペレッティに用器画と水彩画を学びました。
 明治13年、フェレッティは罷免され、イタリアからサン・ジョバンニが後任として来日します。教え子は、堀江のほか、曽山幸彦、松室重剛、藤雅三、上杉熊松など15人でした。フォンタネージは茶系の色彩を主とした風景画家でしたが、サン・ジョバンニは明るく色彩豊かな人物画を特色としました。

 西南戦争に伴う政府財政の悪化や、フェノロサ、岡倉天心らの伝統復帰運動があって工部美術学校は、明治16年で6年間の歴史を閉じ、サン・ジョバンニも契約任期が完了し、3年の滞在で帰国。彼は、堀江の卒業証書に「後世名家教え子達たるべし」と自ら書き添え、帰国の際、堀江の作品を多くイタリアに持ち帰ったといわれています。

工部美術学校時代

  関連作品一覧