平成20年度千葉県立美術館・博物館合同企画事業    案内へ戻る
千葉県の指定文化財展 「房総の仏像・仏画」

終了しました
 展示資料紹介
本展では、県内各地の21か所の寺院・神社・地区の御協力をいただき、
ご所蔵の指定文化財のうち、
21躯の仏像と約30点の仏画・仏具などを展示いたします。

このページでは、
全展示資料の「見どころ」を紹介します。
ご来館頂く際のお役に立てば幸いです。
画像と解説プレートを示しましたが、一部都合により画像の無いものもあります。
 国 重要文化財 
 銅造不動明王立像
 どうぞうふどうみょうおうりゅうぞう
 嘉元元年(1303) 銅造 像高47cm
 印西市・結縁寺

 一つの型で鋳出した胴体に、別に鋳造した両腕を肩先で合わさせています。
 両眼を見開き、上下に牙(きば)をむき、唇をかむ憤怒の形相(ぎょうそう)は生彩ある表情です。また、両腕のがっちりとした構えと左足をやや開いて腰をひねった微妙な動きなど、全体的に写実的で迫力ある作品です。
 正面の裳(も)の部分には「嘉元元年 癸卯九月十五日/願主権律師滝尊」と銘があり、鎌倉時代に制作されたものですが、剣、羂索(けんさく)、光背(こうはい)、それに眼と牙の金泥(こんでい)は後世に補われたものです。
9月28日の年に一度のご開帳には、多くの参詣者が訪れます。
 鋳銅唐草文釣燈籠
 ちゅうどうからくさもんつりどうろう
 室町時代 銅造 高さ34.5cm
 長南町・笠森寺

 全体を一つの型で鋳上げた「まるぶき」という技法で制作されています。笠は反りをゆるやかにして、縁で軽くかえし、火袋(ひぶくろ)は6本の支柱に横一本の桟を渡し、これを獣の脚に似た獣脚台(じゅうきゃくだい)で受けています。笠には唐草文を浅く鋳出して、桃の形をした猪目(いのめ)の風穴が3か所開けられています。
 釣環
(つりわ)の切子(きりこ)や獣脚の様式などから室町時代の作品と思われます。
 形は単純に見えますが、洗練された美しさがあり、日本の鋳金工芸史上注目すべき作品とされています。

 県有形文化財 
 木造如来形坐像
 もくぞうにょうらいぎょうざぞう
 平安時代後期 木造 像高73.8cm

 館山市・千祥寺

 一本のヒノキ材から造られた一木造(いちぼくづくり)です。
 頬がひきしまった丸顔で、つり上がり気味の細目や突き出た唇など表情は古い様式を感じさせます。両肩は盛り上がり、胸は厚く、左肩を覆って右肩に少しかかる衲衣(のうえ)をつけています。
 両手先は当初の状態が不明でしたが、昭和62年(1987)の修理の際に、残っている部分から宝生如来(ほうしょうにょらい)であろうと推定し復元されました。この仏像の名称に「形」が入っているのは、こうした事情によります。
 安房神社に近い寺院なので、御神体の元の姿である本地仏(ほんちぶつ)として制作された可能性もあります。
 木造釈迦如来・多宝)如来坐像
 もくぞうしゃかにょらい・たほうにょらいざぞう
 建武2年(1335) 木造 像高42.2cm 像高41.4cm

 市川市・法華経寺

 両像とも品質・構造はほぼ同じ造りをしています。ヒノキ材による割矧造(わりはぎづくり)の漆箔(しつぱく)仕上げで、目はレンズ状の水晶をはめた玉眼(ぎょくがん)となっています。ともに蓮華座(れんげざ)の上で合掌し結跏趺坐(けっかふざ)する姿です。
 胎内には像内には妙法蓮華経と題目などが納められていました。それらの納入品や墨書銘(ぼくしょめい)から、この仏像は建武2年(1335)に日遵(にちじゅん)の発願により作られ、法華経寺の前身の一寺である下総国八幡庄(やわたしょう)谷中郷(やなかごう)(市川市)の本妙寺に安置されたことが分かります。
 日蓮宗寺院にまつられる最古の遺品で、千葉県の日蓮宗の発展を考える上でとても重要です。
 木造薬師如来坐像
 もくぞうやくしにょらいざぞう
 鎌倉時代初期 木造 像高101cm

 いすみ市・長福寺

 一本のヒノキ材から粗彫(あらぼ)りした像を、割って再びつなぎ合わせるという一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)という技法で制作されています。
 肉髻(にくけい)は高く盛り上がっており、耳たぶは肩に届くほど下に伸び穴を開けています。目尻がつり上がった厳しい表情や、肩幅の広い堂々とした姿などに平安時代中期の作風が見られますが、衣文(えもん)の形や彫りの浅さ、さらに両脚の肉取りが薄いことなどから、平安時代後期から鎌倉時代初期に制作されたと推定されています。
胎内には建長2年(1250)と寛永5年(1638)に修理をしたという墨書が見られます。
 木造薬師如来坐像
 もくぞうやくしにょらいざぞう
 平安時代初期 木造 像高49.7cm

 木更津市・長楽寺

 この像はヒノキ材の一木造(いちぼくづくり)です。脚と腰は一部を除いて後世に補修されています。右手は掌(たなごころ)を正面に向けて立てる施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持っています。
 大きな頭を支える太い首や厚い胸などが、実際の大きさ以上の量感を感じさせます。切れ長の目、ふっくらとした頬、小さな口元に穏やかな笑みを浮かべた表情が印象的です。
 大小の襞(ひだ)をくり返す飜波式(ほんばしき)という衣文(えもん)の表現は、10世紀前半の木彫像の特徴です。
 薬師如来はあらゆる病苦を治す現世利益(げんせりやく)の仏で、日本では7世紀から信仰され、平安時代に地方に仏教が浸透していくなかで多くの仏像が制作されました。
 木造阿弥陀如来坐像
 もくぞうあみだにょらいざぞう
 南北朝時代 木造 像高144cm

 いすみ市・法華寺

 本像はヒノキ材の寄木造(よせぎづくり)で、表面は黒漆地の上にニカワでといた金粉を全身に塗った金泥(こんでい)仕上げで、衣の部分には切金(きりがね)をおいています。
5方向に仏像を配した宝冠をかぶり、頭部には毛髪を筋状に彫っています。
 法衣(ほうえ)を台座から長く垂れ下げる法衣垂下(ほうえすいか)の形は、中国宋元仏画からの影響をうけた鎌倉時代末期以降に多く見られ、彫刻の遺例は13世紀以降の鎌倉を中心とする関東地方に集中しています。
 本像も14世紀前半に鎌倉の地で制作された作品と思われます。
 銅造阿弥陀(あみだ)如来及び両脇侍立像
 どうぞうあみだにょらいおよびりょうわきじりゅうぞう
 鎌倉時代 銅造 像高49.5cm

 山武市・真行寺区

 善光寺式阿弥陀三尊像で、鋳型に銅を流し込んで造られました。左脇侍の観音菩薩は33.4cm、右脇侍の勢至(せいし)菩薩は33.2cmでいずれも銅製です。鍍金(ときん)という金メッキが施されています。
 中尊の頭部は、肉髻(にくけい)が高く盛り上がり、水晶を用いた肉髻珠、眉間は光を放つ白毫相(びゃくごうそう)、喉の部分には三道という三本のしわを表しています。両肩を覆う衲衣(のうえ)を纏い、左手は下げて刀印(とういん)を、右手は肘を曲げて施無畏印(せむいいん)を結んでいます。
 脇侍が被る筒型の六角宝冠には、正面に観音の証である阿弥陀像と勢至の証である宝瓶(ほうびょう)が彫られています。また勢至菩薩が金銅薄板の天衣(てんね)をかけていますが、これは非常に珍しい例です。
 銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像
どうぞうあみだにょらいおよびりょうわきじりゅうぞう
 鎌倉時代後期 銅造 中尊像高52cm

 いすみ市 行元寺

 善光寺式(ぜんこうじしき)の阿弥陀三尊です。中尊は両手首の他は一体となっており、頭部は大粒の旋毛(せんもう)型の螺髪(らほつ)で、肉髻(にくけい)が大きく高く盛り上がっています。
 両脇侍の腕は両肩にホゾで挿し込まれており、頭には筒型の八角宝冠をかぶり、頭髪を筋彫りし、耳たぶには穴を開けています。
 三尊の後ろに元来あったはずの光背(こうはい)が無くなっており、また両脇侍の木製台座も後世に補ったものですが、表面に施した金箔も比較的よく残るなど保存状況も良好です。
 全体的に重厚感のある仏像で、県内に残る善光寺式三尊の中でも優れたものの一つです。
 銅造阿弥陀如来立像
 どうぞうあみだにょらいりゅうぞう
 鎌倉時代末期 銅造 像高45.8cm

 木更津市・木野根沢地区

 鋳銅製の仏像で、両肩から先は、別に鋳造してつなぎ合わせています。頭部の螺髪(らほつ)は大粒で肉髻珠(にくけいしゅ)と百毫相(びゃくごうそう)には水晶がはめられています。右手は掌(たなごころ)を正面に左手は下に向けて、それぞれ親指と人差し指を接する来迎印(らいごういん)を結んでいます。
 指先の微妙な動きや衣の襞(ひだ)の巧みな処理など、細部まで入念に仕上げられており、鋳造の技術の高さがわかります。
 左腕をはずすと体側に銘文があり、鎌倉時代末の正和5年(1316)の造立であることがわかります。
 地元では「手諦坊様(ててぼさま)」とよばれ、雨乞(あまご)い如来として伝えられています。
 木造阿弥陀如来坐像
 もくぞうあみだにょらいざぞう
 鎌倉時代末期 木造 像高52.8cm

 常敬寺

 ヒノキ材の寄木造(よせぎづくり)で、黒い漆地(うるしぢ)に顔や肌の部分には後世の修理の際に施された金箔(きんぱく)が押されています。衣には金粉をニカワに溶き混ぜた金泥が塗られており、金箔を切って用いる切金文様が施されていす。
 手首をひねり胸前で手の甲を向かい合わせる逆説法(ぎゃくせっぽう)という印を結びますが、この印は後世に修理されたものと推測されます。
 髪の生え際が大きく波打っている点や、両肩から膝正面へ垂れた衣とその襞(ひだ)の表現などから鎌倉時代末期の作品と考えられます。
 木造十一面観音立像
 もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう
 鎌倉時代中期 木造 像高101cm

いすみ市・清水寺

 ヒノキ材の寄木造(よせぎづくり)で頭と体は別材で造られています。部材の割れを防ぐために背中から一部を刳りぬき背刳(せぐ)りした二材を合わせています。両腕と両方の足先も別材です。
 右側の後ろ手は錫杖(しゃくじょう)を持ち、左側の後ろ手は水瓶(すいびょう)を持ち、前手は胸の前で蓮を持っていたと思われます。
 広い額や美しい眉目、快く引き締まる小鼻や唇をもつ表情とその充実した肉附が特徴で、衣の彫りも深く、腰をひねり右足を曲げている姿など、大胆な造形です。
 銅造十一面観音立像
 どうせいじゅういちめんかんのんりゅうぞう
 永仁5年(1297) 銅造 像高50.6cm

 印西市・三宝院(上町観音堂旧蔵)

 印西市上町観音堂の本尊である十一面観音ですが、現在は三宝院の管理となっています。
 頭上面は残っていませんが、もとは正面に慈悲(じひ)の相、両側ににらみつけるような瞋目(しんもく)相と牙をむいた狗牙上出相(くがじょうでそう)の各三面を上下二段に、背面に大笑面(たいしょうめん)を付けていたものと思われます。
像は、頭と体を一度に鋳造(ちゅうぞう)していますので、前後に合わせる鋳型(いがた)を使ったものと考えられます。
腰布の背面に銘文があり、鎌倉時代の永仁5年(1297)に制作されたことがわかります。作者は不明ですが、この時期の鋳造像としては比較的大きなもので、鎌倉時代後期の基準となる金銅仏として重要なものです。
 銅造准胝観音立像
 どうぞうじゅんていかんのんりゅうぞう
 鎌倉時代 銅造 像高36.0cm

 長柄町・力丸区

 准胝観音は准提仏母(じゅんていぶつも)とも呼ばれ、本来は「過去無量の諸仏の母」という意味があります。
 日本での具体的な像の制作は、9世紀末の京都・醍醐寺(だいごじ)像以降といわれ、以後、除災(じょさい)、延命(えんめい)などを祈願する法会(ほうえ)の本尊として貴族社会に受けいれられていったようです。
 ただ、准胝観音信仰の東国への普及状況や、この像自体の伝来は残念ながら不明です。
 丈の高い髻(もとどり)、下半身の着衣形式や全体の表現から、13世紀後半頃の堅実な作例といえます。背面にホゾ2個を鋳出(いだ)していることから、もとは懸仏(かけぼとけ)であった可能性が考えられます。
 木造虚空蔵菩薩立像
 もくぞうこくぞうぼさつりゅうぞう
 応仁3年(1469) 木造 像高87.4cm

 君津市・円盛院

 カヤ材の寄木造(よせぎづくり)で、頭には八角宝冠(ほうかん)をかぶり、右手は下げて掌(たなごころ)を見せる与願印(よがんいん)を結び、左手は蓮華(れんげ)を持っています。 眼にはレンズ状の水晶をはめ込んだ玉眼(ぎょくがん)であり、体の表面は薄い赤檀色に染めた檀色(だんじき)仕上げとなっています。
 引き締まった顔立ちや目尻が切れ上がった表情などに、鎌倉時代彫刻の伝統と室町時代の彫刻の特徴が見られます。像内に納入された文書に記されていた応仁3年(1469)に造立されたものと推定されます。
 円盛院は小櫃川の上流にあり、本尊の虚空蔵菩薩が鰻を忌み嫌うことから信徒は今でも鰻を食べないといわれています。
 木造地蔵菩薩立像
 もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう
 木造建長2年(1251) 木造 像高85.3cm

 茂原市・応徳寺(東光寺旧蔵)

 一本のヒノキ材から造られた一木造(いちぼくづくり)で、表面は漆による彩色が施されています。体の両腕は一材で造られ、これに両手首をつなぎ合わせています。部材の割れを防ぐために背中から一部をくりぬく背刳(せぐ)りをし、そこに背板を当てて覆っています。
 左手には宝珠(ほうじゅ)を載せ、右手には錫杖(しゃくじょう)を握っています。
 背板の内側には銘文があり、建長2年(1251)に仏師定阿弥陀仏の手によって制作されたことがわかり、鎌倉時代の地方での作風を示す作品です。童顔で清楚な表情や、細身の体の表現など、慶派(けいは)の作風がよく出ています。
 木造僧形坐像
 もくぞうそうぎょうざぞう
 室町時代 木造 像高42.1cm
 茂原市・応徳寺(東光寺旧蔵)

 本像は頭を丸めた僧侶の姿で、下衣の上に法衣を着け、手は禅定印(ぜんじょういん)を結び椅子の畳座に結跏趺坐(けっかふざ)します。ヒノキ材の寄木造(よせぎづくり)で表面は着色されていますが、これは修理をした際に塗り直されたものです。
 垂れ下がった衣の裏面には「院廣(いんこう)」の刻銘があります。
 名前に院の文字を用いる院派は、平安時代後期の院助(いんじょ)以来の伝統を持つ京都仏師の一派で、院廣は足利尊氏の庇護を受けた仏師です。院派仏師による関東地方の禅宗寺院における活動を示す作品です。
 紙本着色天神縁起絵巻
 しほんちゃくしょくてんじんえんぎえまき
 紙本著色 縦33.5cm  横 一巻140cm、二巻223cm、三巻191cm

 南房総市・天神社

第一巻

第二巻
 天神縁起絵巻は、大宰府に流された後に天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)として信仰されるようになった菅原道真の生涯を、絵と詞書(ことばがき)で表したものです。鎌倉時代以降に盛んに制作されました。
 道真の生涯を記す第一・二巻と、北野宮の創建と御利益を記す第三巻の3巻からなっています。
 一・二巻は土佐派の絵師により描かれており、南北朝か室町時代初期の制作と考えられています。
 三巻は文安2年(1446)に甲斐(山梨県)から来た僧石源が、近くに住む絵師歩石に描かせています。上・中巻と比べやや粗雑ですが、地元の平久里(へぐり)紙で作られた貴重な資料です。
 絹本着色十六羅漢像
 きぬほんちゃくしょくじゅうろくらかんぞう
 元代末期〜明代初期 絹本著色

 成田市・大慈恩寺

 仏陀(ぶっだ)の弟子として修行を終了した人のうち、仏法を護持することを誓った人々を羅漢(らかん)と呼びます。十六羅漢や十八羅漢、五百羅漢などが知られています。
 大慈恩寺(だいじおんじ)の十六羅漢像は、画面全体を細い墨線で細密に表現する描き方や従者として異国の人物も書き添えられる点など、日本で描かれた仏教絵画には見られない特徴もあります。
 千葉県内で十六羅漢像が十六幅揃っているのは、市川市の法華経寺と大慈恩寺だけであり、しかも法華経寺とは別系統の作風であるという点から、房総の仏画としては貴重な作品です。
 絹本着色愛染明王像
 きぬほんちゃくしょくあいぜんみょうおうぞう
 鎌倉時代末期 絹本著色 

 成田市・大慈恩寺

 三つの目と六本の腕を持つ三目六臂(ぴ)の像です。一番奥の第三手は左手が拳、右手が蓮華を持っています。第二手は左手に弓を、右手に矢を胸前に持っています。第一手は左手に五鈷杵(ごこしょ)を、右手は五鈷鈴(ごこれい)を持っています。
 表情は口を開いて牙をむき出した忿怒(ふんぬ)の形相で、全体的には愛染明王の一般的な姿をしています。
 江戸時代に修復された際に、五鈷鈴や宝瓶(ほうびょう)、腕釧(わんせん)・胸飾りなどの金色が落ちてしまったようです。
 愛染明王は名称から家内安全や良縁縁組などの祈願の対象となり、また紺屋(こうや)など染色関係の職人から信仰されました。
 鋳銅孔雀文磬
 ちゅうどうくじゃくもんけい
 応永33年(1462) 銅造 幅22.3cm 高さ16.6cm

 長南町・笠森寺

 磬は中国から伝わった打楽器の一つで、仏事に用いました。
 この磬は鋳銅製で、縁の断面は菱形となっています。その内側にはさらに細い子縁をめぐらしています。文様は表裏とも同じで、撞座(つきざ)(径5.8cm)は八葉蓮華文(はちようれんげもん)になっており、その両側に中央を向いて孔雀が相対しています。
 両面の文様の間に応永33年(1426)年の年号と大工国安の銘があります。
 在銘のものとしては千葉県最古の磬であり、また千葉県に在住した大工の作品例として、鋳工史上たいへん貴重な作品です。
 金銅孔雀文磬
 こんどうくじゃくもんけい
 南北町時代 銅造 高さ12.1cm 
幅18.8cm
 木更津市・長楽寺

 磬は中国から伝わった打楽器の一つで、日本では仏教法具として使用されています。
 中心の撞座(つきざ)が八葉複弁の蓮華文(れんげもん)で、左右に向かい合って片足で立つ孔雀を配しています。文様は裏表とも同じ図柄です。縁の断面は菱形で、内側には子縁を伴っています。
 やや小さめの磬ですが、全体の鋳造は精緻で力強い雰囲気を持っています。
 制作年を示す銘文はありませんが、様式などから南北朝時代のものと見られ、現在までのところ県内では最古に属するものです。
 鋳銅鰐口
 ちゅうどうわにぐち
 室町時代 銅造 直径46.9cm

 長南町・笠森寺

 鰐口は社寺の拝殿に吊るして、参詣者が下がっている綱で打ち鳴らす金属製の大きな鈴です。
 この鰐口の表面には簡素化した蓮華文(れんげもん)の撞座(つきざ)を中心に、三条の帯線を等間隔で三重に配しています。
 そこには十一面観音の種子(しゅじ)を中心にして、左右に「上総国刑部郡大悲山笠森寺鰐口也」の銘文と応永34年(1427)の紀年銘、谷田大工国安の作者銘が刻まれています。
 笠森寺付近を刑部郡(おさかべぐん)と言った時期がありましたが、現在、長生郡長柄町にその地名が残っています。また、大工国安の住んでいた谷田は、現在の市原市矢田であると考えられます。
 大般若波羅蜜多経・経箱入
 だいはんにゃはらみつたきょう
 平安時代〜南北朝時代 紙本
 
 神崎町・神宮寺

 三蔵法師が漢訳し日本に伝えられた大般若経は、災いを除け福を招く御利益があるとされ、各地で木版や書写されてきました。
 神宮寺の大般若経は全600巻のうち大部分の540巻が残っており、それらは県内各地の写経僧が書写したものです。
 また、写経本の多くに奥書があるのも特徴で、僧侶や年代などを知ることができ、寺院の文化活動を伝える資料として貴重なものです。
 白井庄(佐倉市・八街市)の六所宮に納められていたものが、大永8年(1528)に神宮寺に奉納されたもので、経箱には貞治2年(1363)に六所宮に奉納されたことが刻まれています。
 繍字法華経陀羅尼品
 しゅうじほけきょうだらにぼん
 絹本繍字 縦36.5cm 横300cm
 南房総市・宝珠院

見返し

巻末
 法華経陀羅尼の経文の文字を一字ずつ白色の絹布に藍色の絹糸を用いて縫いつけたものです。館山市那古寺に所蔵される繍字(しゅうじ)法華経普門品(ふもんぼん)とともに、数少ない中国元朝(1271〜1368)渡来品の一巻と考えられています。
 見返しと巻末に彩色の細密画があり、見返しには釈迦(しゃか)と普賢(ふげん)と天部(てんぶ)の二像、巻末には千手観音立像がそれぞれ描かれています。
 那古寺の普門品と同じように、安房地方出身の京都の智積院(ちしゃくいん)第九世が元禄15年(1702)、宝珠院に与えたことが巻末に記されています。
 鬼舞面
 おにまいめん
 年代不詳 木製
 
 成田市・迎接寺
 この面の由来については迎接寺(こうしょうじ)の縁起(えんぎ)に次のような話があります。長徳3年(997)に、この地に滞在していた恵心僧都(えしんそうず)(天台宗の高僧、別名源信(げんしん))が生死をさまよう病となり、地獄・極楽を垣間見ますが阿弥陀如来の救済により一命を取り止めます。
 回復した後に彼は、地獄・極楽の様子と阿弥陀如来が民衆を救う姿を広く伝えたいと思い、鬼と仏の面を彫って盛大な法会(ほうえ)を開いたというものです。
 それ以降は33年毎に法会が開かれてきたようで、江戸時代中頃の記録には「鬼の舞」として周辺に知られ、賑わっていたようですが昭和22年を最後に途絶えてしまいました。

  問い合わせ先:千葉県立中央博物館 歴史学研究科
〒260-8682 千葉市中央区青葉町 955-2
電話 043-265-3111(館代表) FAX:043-266-2481
ホームページ http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/

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