千葉県立中央博物館 平成23年度企画展「出羽三山と山伏」
内藤正敏写真展 『出羽三山の宇宙』
 第2企画展示室では、写真家・民俗学者である内藤正敏氏の写真展を開催しています。内藤正敏氏は、25 歳のときに撮影のために訪れた湯殿山注連寺で鉄門海上人の即身仏に出会いました。このとき受けた衝撃をきっかけに修験道への興味を深め、自ら羽黒山伏の秋の峰修行に参加しました。それ以降、東北の民俗や信仰をテーマとした数多くの作品を発表しています。写真家と民俗学者という二つの視点を併せ持ち、東北研究の第一線で活躍しておられます。今回の写真展では、出羽三山の山岳空間が信仰を廻る巨大なマンダラ空間となっていることが26枚の写真を用いて表現され、極めて印象深い展覧会場となっています。
内藤氏1
内藤氏2
内藤氏3
写真展へのメッセージ(内藤正敏)
 千葉県は、出羽三山の信仰が強く、登拝者数は、山形県、宮城県、福島県に次いで、千葉県が4番目に多い。 文政8年(1825)に現在の千葉県君津郡袖ヶ浦から出羽三山参りをした時の『北国道中日記』によれば、往きの道中に17日、出羽三山で3日、帰りの道中に19日の合計39日間かかっている。さらに出発前には、行屋に籠って厳格な別火精進修行をしている。たった3日間のために1ヶ月以上の苦しい長旅をつづけた人々の心をささえた「出羽三山」とは、いったい何だったのか。 明治以前の神仏混淆時代には、出羽三山の羽黒山は聖観音、月山は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来とされており、羽黒修験では、出羽三山を順に登拝することを「三関三(さんかんさん)渡(ど)」といって、次のように意味づけていた。羽黒山は現世の仏の観音浄土なので、娑婆の幸せを祈り、その修行によって生死の海を渡り、月山の極楽浄土へ行き、阿弥陀如来の妙法を聞く。その力で苦域の関を渡り、寂光浄土・大日法身の地である湯殿山に入る……。 また別の口伝によると、羽黒山の観音菩薩は現世の衆を救う仏なので"現在"、月山の阿弥陀如来は死後の仏なので"過去"、湯殿山の大日如来は"未来"だとする。 出羽三山を登拝することは、単に羽黒山、月山、湯殿山を歩く登山ではなく、出羽三山という異界の時空を旅することだったのである。 修験道では山を母親の胎内と考える。出羽三山でおこなわれる"秋ノ峰"とよばれる山伏修行では、修行者が一度死んで、新しい生命を得る。そして山中の修行は母体内で胎児が成長する期間とされ、最後に出生して下山するという"擬死再生"の世界観で構成されている。山は水源地であり、あらゆる生命を産みだす巨大な胎内だった。 出羽三山には、みだりに一般人が近づくことを禁ずる"秘所"とよばれる聖地があり、教義や縁起などによって意味づけされ、山岳空間が巨大なマンダラ空間となっている"視える自然"の奥に、修験道によって意味づけられた"視えない自然"がかくされている。山伏の回峰行は、この二つの自然を重ね合わせることにほかならない。
【内藤正敏氏 おもな受賞歴】
日本写真批評家協会新人賞  個展「日本のミイラ」  1966 年
土門拳賞  写真集『出羽三山と修験』  1983 年
日本写真協会年度賞  写真集『東京』  1986 年
【内藤正敏氏 おもな著作・写真集】
『ミイラ信仰の研究』  大和書房  1974 年
『内藤正敏写真集「出羽三山」 』 新人物往来社  1980 年
『出羽三山と修験(日本の聖域9)』 共著  佼成出版社  1982 年
『修験道の精神宇宙 』 青弓社  1991 年
『日本のミイラ信仰』  法蔵館  1999 年
『内藤正敏*民俗の発見 1 東北の聖と賤』 法政大学出版局 2007 年
『内藤正敏*民俗の発見 2 鬼と修験のフォークロア』 法政大学出版局 2007 年
『内藤正敏*民俗の発見 3 江戸・王権のコスモロジー』 法政大学出版局 2007 年

『内藤正敏*民俗の発見 4 江戸・都市の中の異界』 法政大学出版局 2009 年
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