北青柳きたあおやぎ 三山行人講(市原市)

調査時期:2011年6月

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公民館内の行屋祭壇

北青柳 三山行人講では、かつては毎月8日に八日講を行っていましたが、昭和50年ごろにいったん途絶えてしまいました。近年古い梵天などを参考に復活させ、11月に神社の記念塚と共同墓地の供養塚に、3本ずつの梵天を立てています。

梵天の作り方

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垂れ紙を3枚下げる
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宝冠を冠せる
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数十年前の梵天
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現在の梵天

手順

  1. 藁ヅトの切り口を下に、半紙を巻く。
  2. B4の上質紙を4つ折りして切れ込みを入れ、ひとつ開いて作った垂れ紙を3枚つける。上から紙をかぶせる。宝冠をかぶった行人の顔だという。
  3. 白の紙紐で紐結びの飾りをつける。結び目は眼・耳・鼻・口・心・体の六根をあらわす。
  4. 山2本と「ヒラヒラ」1本を作り、頭に挿す。これは月山、羽黒山と湯殿山で、ヒラヒラは湯殿山から噴き出る噴水をあらわす。
  5. マダケの支柱を挿し、支柱の中ほどには湯殿山をあらわす幣束をつけて水引を結ぶ。
  6. 柱最下部に正方形の紙を挿す。梵天を立てる際に、大地と梵天を仕切る「石突」となる。

現在の行事と梵天

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墓地の三山塚に梵天を立てる(提供写真)
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八幡神社境内の三山塚にも梵天を立てる(提供写真)

行屋は公民館内に併設されており、大日如来像、不動明王像などを祀っている。

かつては毎月8日に八日講を行っていたが、昭和50年ごろいったん途絶えてしまった。バカ貝やハマグリの漁でたくさんお金が入った漁師村だったうえ、昭和34年から始まった埋め立ての保証金が入り、八日講で花札など派手な遊びをして地域からひんしゅくを買ったことも衰えた原因のひとつだった。また登拝も、すっかりお遊びになってしまった。現在は年1回、11月3日に役員が公民館に集まって梵天を6本作り、神社の記念塚と共同墓地の供養塚に3本ずつ立てる。その後、各区の行人で料理屋などにでかけている。梵天の作り方も一度途絶えてしまったため、残っていた古い梵天を参考にし、また西青柳で作り方を学んで再構成した。

三山登拝の近況と梵天

三山へは一生に一度行くもの、そして跡取り息子は必ず行くものだという考えがあり、20歳から30歳くらいの男子で人数がまとまると出かけて行った。三山に行き、次に富士山に行くと一人前だと言われたが、そのように行ったのは昭和の終わりころまでで、その後は役員の代表が先達となり、希望者をとりまとめて連れていくようにしているが、それでも人数が集まらなくなっている。宿坊は養清坊で、毎年3月ころに廻ってくる。その前にお札を送ってくるので、各区の役員が区内の行人に販売する。

山へ行く前にはひとり1本の梵天を立てて行った。留守の間、家人が朝「はだし参り」と称し、のどがかわかないよう、食べ物に困らないよう、梵天にお水とおしゃご(生米)をあげに行った。山から帰ってくると、その足で共同墓地の供養塚に行き、剣梵天を納めた。

行人の葬式と梵天

葬式には、行人がささげの煮汁を使わずに作る白いおこわを炊いて、出棺のあとの酒席に出した。このおこわを炊く火をつける際、火の親(三山信仰の親方)が火打ち石を打った。また白い梵天を3本作り、墓に立てた。土葬のころは3本の梵天のほか、墓地のまわりを囲む梵天もあった。