第2章 千葉県の産業・交通遺跡の特色

第1節 総論

本調査は,幕末以降に建造され,かつ現存する近代産業構造物について,資料収集と現地調査を通じて実態を把握するとともに,千葉県の産業・交通の発展過程を体系化し,将来に役立たせることを目的とした。人は今,自然環境に順応していく時代から征服を試みる時代,そして共存・協調・共生へと変化してきた。その時々の産物が遺跡・遺構である。人が住みそこに憩うためには自然の恵みを生かすことが必要である。そのための堰・生簀がもうけられ,そこで穀物ができ漁業が育つ。それの基盤が土木構造物である。そこで活動するために産業が生まれ,人・物の移動のために交通が生まれる。そこで,本調査は産業・交通・土木の3つの視点でまとめることにした。

千葉県は他県に較べると高い山はなく,起伏はあるものの台地である。気候は温暖で住みやすい。また東京に近く地の利がよいので,江戸時代より東京の台所を担っていた。千葉県の周辺は海に面していることと,利根川と江戸川にめぐまれ,水運も大事な交通路であった。その変遷によって交通の役割も変わってきた。一方,この利根川は,鎌倉時代以降,江戸城の防衛として,また明治以降,千葉県は地理的に見ると太平洋を背に東京の防衛的意味合いが強かった。それ故,軍の施設が多くあったように思われる。戦後は京葉臨海に工業が誘致され一変する。これを背景として,産業・交通遺跡を産業関係施設・交通関係施設・土木関係施設の視点からまとめることにした。

調査の時点では,大分類として分類1,中分類として分類2とした。しかし,内容によって産業・交通・土木にまたがる施設もある。

例えば運河は土木構造物で土木関係施設であり,交通関係施設でもある。しかし,内容を分割するわけにはいかないので,土木関係に所存させることにした。

また,本調査は,現地踏査で行われたが,現物がない場合には,資料としてとどめることにした。

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産業関係施設の視点

本県には,醤油の代表として,銚子にヒゲタ醤油,ヤマサ醤油,野田のキッコーマン醤油,キノエネ醤油がある。これは背後に醤油の材料である大豆と小麦が手に入りやすかったことと気候が温暖で多湿であることにより酵母や微生物の発育に適していたことによる。背後の筑波山麓では大豆が,野田周辺では小麦が,そして江戸川下流の行徳では塩が容易に入手でき,利根川上流の群馬からは容器の樽用に木材や竹が供給された。江戸川下流に位置する行徳は東京港内にあり,干潟で揚浜式の塩田が営まれていた。房総側には館山の汐入川河口,木更津の中島にもあった。すなわち,醤油醸造業は立地と気候風土が生みだした産物である。

水系に恵まれた江戸川・利根川流域では,水利を伴う稲が生産されたのに対し,高低差のある下総台地には畑作が普及した。換金作物を畑作物に求める千葉の農業は,そば・麦・茶・養蚕といった生産物の変遷を重ねてきた。

サツマイモもそのひとつである。千葉市幕張の秋葉神社境内は青木昆陽甘藷試作地である。昆陽は江戸時代中期の儒者で,町奉行大岡越前守忠相によって,幕府の書物方に登用された。昆陽は,時の将軍吉宗に甘藷栽培を説き,房総各地で甘藷栽培を行った。栽培は成功し,その後の天明・天保の大飢饉では,この地の人びとに多大な貢献をした。その後,甘藷から飴や甘藷デンプンが作られ,下総の特産物としてさかんに江戸に送られた。

また今日,千葉名産の一つとして名高い落花生は1876(明治9)年現成東町の牧野万右衛門によって初めて試作に成功したものである。原産地は南米で下総台地の農産物としてなじんだ。砂土に適し,栽培管理に手がかからないため,山林を開墾した開拓地を中心に県内各地に普及した。

一方,江戸時代,下総には広大な馬の放牧地があった。これらの広大な馬の放牧地は明治初年,政府の政策によって開墾される。明治維新直後の東京には,職を失った旧幕府の家臣やその関係者,あるいは職を求め各地から流入した多数の人でひしめいていた。こうした首都の治安や社会不安の解消と,新時代が要請する殖産政策の下,下総の開墾は行われた。

移住は1869(明治2)年から始まり,1871(明治4)年春には開墾民の移住も終った。しかし,開墾事業は容易でなかった。地味の悪い台地,さらに水利の確保が困難なことによって常に干ばつに見舞われた。しかし,落花生の渡来によりその危機を脱することになる。

また,千葉は酪農地帯でもある。愛宕山の中腹に,嶺岡牧場がある。正式には県営の「嶺岡乳牛試験場」という。ここは里見氏が軍馬育成の目的のため創設した嶺岡牧場であった。その後,8代将軍吉宗が,1728(享保13)年インド産の牛を3頭,嶺岡牧場に放ち,牛牧士を置いて管理した。これらの牛は飼育繁殖され,1792(寛政4〉年には多くの白牛が出生したという。

ここは,日本における酪農の発祥地といえる。その後,酪農は周辺の村々におこり,安房酪農の発展の端緒ともなった。現在でも千葉県は,全国有数の酪農県となっている。

一方,千葉は海に面しているため漁場に恵まれ,銚子漁港,勝浦漁港をはじめ多くの漁港を有している。その加工業も多くあり,生産も大きかった。しかし,国の殖産政策もあり,東京湾臨海工業の構想が生れる。この内湾の埋立地に臨海コンビナートや各種企業を誘致する構想は,1940(昭和15)年内務省土木会議で東京湾臨海工業地帯造成計画による。戦後,農業県・漁業県からの脱却を図り,積極的な開発を推し進めることになる。千葉県は江戸時代には江戸城の防衛,大正・昭和に入ると国防の下,九十九里,館山を始め県内に軍施設が建設される。

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交通施設の視点

本県は,首都圏において半島的意味が強く,他県と較べ道路網は疎であった。江戸時代,江戸を中心とした道路網として五街道があり,千葉県として水戸街道があった。水戸街道は,大名行列が通った道で水戸佐倉道ともいわれていた。水戸街道は日本橋を起点として千住まで日光街道と同じ道を辿り,金町・松戸・小金・我孫子を経て利根川を渡り,水戸に至る街道である。その間,関,一里塚も設けられていた。東我孫子一里塚,湖北一里塚はその一部である。

脇街道として,木下街道,成田街道,御成街道があった。木下街道は鮮魚が運ばれる道であり,利根川の木下から大森,十余一,鎌ケ谷,本八幡を経て,行徳に至る街道である。成田街道は庶民信仰の道で,行徳から船橋,大和田,臼井,佐倉,酒々井を経て,成田に至る街道である。脇街道の1つである御成街道(東金街道)は,船橋御殿から東金御殿までの十里十五町(約37km),道幅三間(約5.5m)のほぼ一直線の道路である。この街道は1614(慶長19)年徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で,建設にあたっては近隣90有余の村々から人足が動員された。また,夜を徹しての突貫工事で灯を燈して工事を進めたため提灯街道,または1日街道の別称もあり,さらには権現道とも言われている。

通説では将軍が鷹狩りのために使用されたと言われているが,実際には九十九里米穀生産地帯との連絡,下総原野開拓等,太平洋岸への軍用道路といった政策的意図も少なくなかった。

この御成街道沿線地域は,時を経た明治時代以降には富国強兵政策のもと,佐倉・四街道地区を中心に軍施設が設置されたほか(現在は自衛隊),戦後は八街町沖地区の耕地整理による自作農創設等,江戸期の目的をそのまま継承するように変容を遂げている。

一方,銚子から東京まで内陸を通って運搬されていた物資は利根川・江戸川をへて輸送されていた。この銚子から東京への水運の役目をはたしていた利根川・江戸川航路に1890(明治23)年利根運河が開通する。この結果,銚子から東京への所要時間が23時間のところ19時間となり約4時間の時間の短縮となった。運河は,柏市船戸から流山市深井新田間の総延長8.2kmでオランダの土木技師ムルデルによって完成した。

利根川を遡る船は,この運河によって,浅瀬が多く運搬に手間取る上流の利根川と江戸川の分岐点,関宿を経由しなくとも江戸川に出られることになったため,連日多くの蒸気船で活気に満ちた。しかし,運河の歴史は短かかった。たび重なる洪水による堤防の破壊,陸上交通の普及によって,急速にさびれていった。そして1941(昭和16〉年の大洪水によって,致命的な破壊をうけた利根運河はその歴史を終えた。

一方,近世そして明治時代,江戸川は東北や北関東と江戸・東京を結ぶ大動脈であった。野田の醤油・流山の味醂の流通もまた,この江戸川の恩恵に浴したものであった。江戸川の水は沿岸の田畑を潤し,飲料水にもなった。この江戸川にさまざまな船が往来し,各地の河岸(船の港)は人と物で賑わった。しかし,大正以降,急速に発達した鉄道輸送や陸上交通によって水運は衰退し,江戸川から船の姿は消えていった。

千葉県に関する鉄道は,1872(明治5)年に新橋〜横浜間に鉄道が開通してから22年後の1894(明治27)年に総武鉄道会社が設立した。そして本所(錦糸町)〜佐倉間が開業した。1900(明治33)年の鉄道観光双六図でみると本所〜大原,本所〜銚子,本所〜佐原で,産業物資輸送に主体をおいて建設していったことがうかがえる。1906(明治39)年富国強兵のもと鉄道国有法が制定され全国くまなく鉄道網を張り巡らせることになる。県内の鉄道は大正・昭和に入って,つぎつぎと路線が拡張された。

小湊鉄道の開業は1925(大正14)年五井〜里見間を蒸気機関車が走った。小湊鉄道が上総中野まで開通する1928(昭和3)年以前は物資輸送を養老川に頼っていた。薪炭,米,雑穀などは川船で,木材や竹はイカダを組んで搬出した。帰り舟で塩,海産物,肥料や日用雑貨が運ばれていた。

また,小湊・銚子の海上交通の進展は地域間の物流に影響を及ぼし,米の受給を緩和するなど,全国が一つの経済圏へと編成された。そして地方産業は発展し,適地稲作の地域分担による新田開発も促されて,地域経済の平準化,全国経済の成長のうえに図り知れない要素となった。

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土木関係施設の視点

本県の土木施設として大土木事業は江戸幕府時代の利根川東遷事業である。その理由として,日本の河川は欧米に較べると,急流河川が多く,また当時の利根川は乱流しながら東京湾へ流れ,そして太平洋には常陸川が流れていた。それ故,江戸(東京)は時折利根川の猛威に悩まされていた。そこで,水害防止のために利根川の本流を銚子へ変えることになる。しかし,この結果利根川は三国山脈の大水上山を水源として北関東平野を通って銚子まで,322kmの長い距離の水系となる。

この事業の目的は,江戸の水害防止や流域の新田開発,あるいは江戸城防衛という説もある。事業は,江戸川の開削によって,利根川・江戸川航路を開設することであった。これによって,大消費地の江戸は,首都の商業地となった。

この利根川の本流が銚子に流れることによって,内陸の香取の海は遮断され,取り残されたのが印旛沼であり,手賀沼であった。印旛沼は利根川と水路によって繋がっていた。そのため,沼の周辺は利根川洪水の逆流によって,しばしば大被害にあった。沼の周辺を水害から守るには,氾濫した水を東京湾に流すことがどうしても必要であった。この工事は江戸時代に,3度にわたって行われたがいずれも失敗に終わった。天明年間の田沼意次による工事後,天保年間の水野忠邦による幕府主導の下の工事は,各幕府に多大な経済的,かつ人的負担を強いたが失敗した。今日,印旛沼の水は新川・花見川を通って東京湾に流れ,その水は取水されて千葉市周辺の人々の飲料水にもなっている。

手賀沼は,かつては沼底から清水が涌き,沼周辺の農民達はそれを飲料水にした。また,手賀沼周辺は鴨やウナギの名産地であり,しじみ,もくずがに,からす貝等がたくさん獲れた。しかし今日,手賀沼周辺は開発され,日木一汚れた沼と化してしまった。

しかし,利根川の恩みは大きいものがあり,水運・水田に多大な恩恵を与えている。利根川下流部は布佐から河口の銚子まで勾配は緩やかである。それ故,海水の逆流によって,しばしば水田に塩害を起こした。そこで塩害防止の目的で利根川河口堰の建設が行われた。その結果,利根川下流の海水と淡水が混じりあう汽水域が崩れ,利根川名産のしじみや,下りウナギが次第に利根川から姿を消していった。これらは,一つ良かれとしたものが思わぬ結果を引き起こした例でもある。

一方,土木事業は豊かさをもたらした。それは江戸時代の始め,現在の旭市・干潟町・東庄町・八日市場市にまたがる椿海という大きい湖があった。この椿海を埋め干拓地とした。しかし,この干拓地の生産力は低く,農民たちは苦しんだ。また,湖の消失は周辺農民の貴重な水源を失わせる結果となった。

戦後,両総用水や大利根用水といった水利事業の完成が,この地や九十九里の農村に安定した農業用水を確保することになった。

このように本県は,水田にともなう農業土木の施設と水運にともなう河川に関する土木施設が多くみられる。

土木関係施設としては,利根川に教えられ,学んできたように思われる。

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まとめ

本調査は,実態を把握し産業・交通遺跡の技術的価値,文化的価値と歴史的価値を伝承するため,事実を資料に留めるように努力した。技術的価値は,その時代の材料・技術水準・美的感覚であり,歴史的価値とは,社会的役割・貢献度である。

千葉県の場合は,戦前迄は農業県・漁業県であったことから,全国一という産業構造物は見ることが無かった。これは時代区分により明治以降戦前までを近代として産業・交通・土木関係施設を捉えたためと思われる。実際に調査を始めてみると,現存しているものと史料の記述が相違しており,再度にわたり現地踏査をしていただいたので,調査員の方々には大変御苦労をおかけした。

今回は交通・産業・土木の視点でまとめたが,産業・交通遺跡は立地・風土による地域性,その時代の社会・経済的環境,その時代の技術,職人,人物によって,その遺跡の特徴が異なる。今後はさらに入物伝・文化的影響・環境(環境評価)等の多元的な視点でまとめることが必要と思われる。

最後に調査員の方々の御協力に感謝する。

(榛澤芳雄)

参考文献

1) 榛澤芳雄:交通の史的展開と将来への展望,交通工学Vol.30,No.1,pp.3-6,1995年
2) 房総見聞録,千葉銀行,1996年

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