第2節 産業関係施設に見る千葉県産業・交通遺跡の特色

北と西を利根川・江戸川で限られ,三方を海に囲まれた千葉県は,その特徴的な地形との関わりの中で産業や交通を発展させてきた。産業・交通と密接な関連をもちながら建てられた産業関連の建築遺産も,そのような視点で見ていく必要がある。


水運と醸造施設

利根川と江戸川の流域には土蔵が並ぶ街並みで有名な佐原に代表されるように,江戸・東京との水運によるつながりの中で発展してきた地域が多い。香取郡神崎町には利根川の水運を利用した明治期の米蔵も現存するが,千葉県内において河川流域の重要な建築物として特筆すべきものは,やはり各種醸造関係の施設であろう。

江戸時代より行われていた醸造業においては,明治期以降の近代化によって生産の合理化がはかられるとともに,建築物にも洋風の技術が取り入れられた。従来の土蔵造りの蔵や作業場も建築されたが,それに加え,煉瓦造の壁体とトラスの小屋組をもつものや,鉄筋コンクリート造の建築物も建てられていった。このことは,わが国における建築技術の近代化をも示しており,たいへん興味深い。さらにそれらが現在でも使用され続けていることは,近代化遺産としての重要性を高めている。

利根川と江戸川の双方の水運に恵まれた野田市には,キノエネ醤油株式会社,キッコーマン株式会社の二大醤油醸造会社が現在も操業を続けている。

キノエネ醤油工場群には1897(明治30)年に社長邸宅として建てられ,現在は本社社屋として使われている木造2階建ての建築物がある。この社屋にはわが国の伝統的な建築技術が用いられているが,一方1921(大正10)年に竣工した作業場は鉄筋コンクリート構造で建てられている。また中蔵・昭和蔵と呼ばれている2棟の建物は,鉄筋コンクリート構造の軸部や壁体に,木造のトラスを組んで屋根を架けている。新旧の構造を用いた建物群の中では明治〜昭和初期に造られた桶が今も現役で用いられており,施設全体が一体となった産業遺産といえよう。

キッコーマン株式会社が所有する建物には,1926(大正15)年に竣工した鉄筋コンクリート構造のプラントをはじめ,1927(昭和2)年に木造モルタル仕上げで建てられたアール・デコ風デザインの本社社屋,1939(昭和14)年,日本の伝統的形態を採用し,木造漆喰仕上げにより完成された御用醤油醸造所などがあるが,この他にも野田市内にはキッコーマン関連の施設が数多く現存する。講演会・映画会・展覧会などさまざまな文化活動を行うことができる施設である1929(昭和4)年竣工の興風会館,キッコーマンの文化事業の一環として1941(昭和16)年に建てられた興風図書館,キッコーマンの寄贈により1928(昭和3)年に建設された野田市立小学校三年館などがその代表である。また株式会社千秋社社屋は1926(大正15)年に野田商誘銀行として建てられたものであり,戦時中の金融統制により千葉銀行となった後,1970(昭和45)年にキッコーマンの会計業務などを行う現会社の施設となった。「商誘」の名の由来は「醤油」とのことであり,まさに野田の地域性をあらわす建物といえよう。これらキッコーマン関連の施設には,醤油醸造との直接のつながりはないものの,地域の産業やその資本との密接な関わりが見られ興味深い。

香取郡神崎町は利根川の水運に恵まれるとともに,良質の水を有することから,前述した米蔵の他にいくつかの清酒醸造所が現存する。現在酒類の小売のみを行っている平甚酒店も以前は醸造を行っており,その面影をとどめているが,鍋店株式会社や株式会社寺田本家では今も操業を続けている。

寺田本家の醸造施設群には土蔵造りの釜場蔵と呼ばれている作業場や,製品庫と呼ばれる倉庫が,煉瓦造の醸造蔵とともに現役で使われている。利根川流域には煉瓦造の建造物が比較的多く建てられており,醸造蔵を土蔵とせず,あえて煉瓦を用いて建造したことにも地域性の一端があらわれているといえよう。当施設群の中にはこの他にも小規模な蔵や大規模な作業場などがあり,少しずつ増改築を加えながらも,今なお明治期の醸造所の姿をとどめており,利用されながら残された産業遺産の好例である。

利根川の河口に位置する銚子もまた江戸時代より醤油の一大産地として発展を遂げてきた。中でもヤマサ醤油株式会社には大正末期に建てられた数棟の建築が現存しており,現在も使われている。そのうち貯水槽については鉄筋コンクリート構造の地下水槽に木造平家建ての上屋をのせた簡素な造りとしているが,表門衛所,研究所1号館,小麦・大豆等の保存蔵である穀蔵,モロミを熟成させるための西5・6の蔵などは鉄筋コンクリートにより柱・梁・スラブを構成するラーメン構造とし,壁体は煉瓦を積上げて表面にあらわすか,タイルを貼ることによって意匠にも配慮した建築としている。

銚子が全国屈指の醤油の産地となり得たのは,江戸・東京と水運により結びつき,材料の運搬や大量の消費がなされたこと,良質な水や気候に恵まれたことによる。その結果,現在でもヤマサ醤油の施設群の他に,ヒゲタ醤油の醸造用水として用いられていた煉瓦造の竜の井(通称「玄蕃井戸」)や河岸問屋を営んでいた宮城家の木骨煉瓦造の倉庫など地域と関わりの深い産業遺産が残されている。

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水産加工場とその他の工場

醤油の産地として有名な銚子は,太平洋に突出した港町でもあり,漁業や魚類加工業関連の施設も多い。1937(昭和12)年に明石缶詰株式会社により建てられ,現在信田缶詰株式会社の所有する事務所は,木造2階建て・モルタル仕上げの建物である。工場内において他より上位に格付けられる建築物であるため,窓を縦長にし,壁体表面には目地をとって洋風建築らしい造りとしている。木造の骨組にモルタルを塗り石造に見せかける手法は,昭和初期の建築物によく見られるものであるが,その数は減少しつつある。またその他にも銚子市内には水産関連の建築物として,建設年代が慶応年間にさかのぼる可能性もある,木造切妻造りの主屋に下屋を付けた形態をとる漁船主の納屋や,現在は漁網の倉庫として使用されている,昭和初期に建てられた木造の瀟洒な意匠の旧缶詰工場・鰹節製造所跡などがある。戦時中の空襲による被災をまぬがれたこれらの建築物は,銚子の港町としての一面を示す,特徴的な産業遺産である。

以上のように千葉県内には,特に醸造業を中心とした工場関連の施設が,主に水運に恵まれた地域で発展してきたが,鉄道に代表される交通網の整備が進むとともに,その他の地域にも産業と深く関わる建築が生まれ,各地に産業遺産を残すこととなった。醸造施設はいうに及ばず,煉瓦造や石造の倉庫なども数多く現存しており,その中には以前火力発電所であった建築物なども含まれている。それら産業関係の施設を全て取上げることはむずかしく,今回の調査では,鴨川市の製氷工場,佐倉市の旧ヤマニ味噌ボイラー,飯岡町のでんぷん製造工場,野栄町の清酒醸造元宮崎本家,茂原市の昌平町天然ガス第一貯蔵所など,各市町村による予備調査の報告があったものに対象を絞った。

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灯台と給水塔

太平洋に突出した半島状の地形からなる千葉県に特有な建造物として灯台があげられる。県内には数棟の灯台が現存しており,木造,煉瓦造,鉄筋コンクリート造と,新旧の様々な構造が採用されていて興味深い。

県指定有形民俗文化財に指定されている船橋市の灯明台は,1880(明治13)年頃建てられた木造3階建ての小規模な灯台であり,海苔の養殖やあさりの採取で生計を立てる漁民達が,自らの費用で創設したという特異な経緯をもつ。一方安房郡白浜町に建つ野島崎灯台は,関東大震災によって被害を受けた煉瓦造の灯台に替わって,1925(大正14)年に建てられた鉄筋コンクリート造の灯台であるが,外観については当初の姿を踏襲し,八角形の平面を基本として再建され,千葉県最南端のシンボル的存在となっている。しかし県内の灯台の中で最も代表的なものは,やはり銚子市の犬吠埼灯台であろう。

工部省灯台寮の招聘により来日したイギリス人技師ヘンリー・ブラントンの設計により,1872(明治5)年に着工した犬吠埼灯台は,その2年後に完成した。補修によって現在は表面がコンクリート仕上げとなっているが,建設当初は煉瓦造の壁体を外観にあらわした印象深い姿であったことが,当時の錦絵から確認することができる。ブラントンの意志に反し,最終的には香取郡高岡村(現下総町)の土を用いた国産の煉瓦によって建設しており,わが国の工業の発達過程を示している点でも重要である。犬吠埼灯台は明治期の貴重な遺構であるばかりでなく,煉瓦造の中では日本随一の高さを誇る建造物としての価値も併せ持つ,千葉県を代表する産業遺産である。

灯台との機能的共通性はないが,塔状の建造物であるという形態的類似性を持つ給水塔も,戦前の遺構が県内に現存している。海洋県特有の施設である灯台などとは異なり,給水塔はごく一般的存在ではあるが,人々の生活を支えていく上で必要不可欠なものであり,場合によっては地域のシンボルとなることもあり得る。そのような意味で本県においても取上げるべき産業遺産といえよう。

県内における戦前に建設された給水塔の典型例として,1937(昭和12)年に完成した旧千葉県都川給水塔と栗山浄水場配水塔の2棟があげられる。ともに鉄筋コンクリート構造を採用しており,形態を見ると塔状で前面に方形平面の階段室を付するなど共通点もあるが,外観はやや異なった印象を与える。都川給水塔は建物本体が正12角形の平面であるため,外観に縦の稜線があらわれ,また胴部に水平の帯による分節が見られる。窓が多くとられ,頂部には手摺付きのバルコニーを巡らすこともあって,給水塔という実用本意の建物でありながら,意匠に活気が感じられる。一方,栗山浄水場配水塔は円形の平面で,階段室以外には開口部がないため,壁面に凸凹が少なく簡素な外観となっている。しかし建物上部には帽子のようなドーム及び柱とアーチで支持されたランタンがのせられ,重厚な印象を与えている。2棟の給水塔は現在も県民の生活を潤す重要な社会基盤として働き続けている。

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各地に残る駅舎

社会生活の基盤となる産業・交通遺産という視点でとらえた場合,最も重要なもののひとつとして鉄道があげられるのはいうまでもない。水運に恵まれた千葉県においても,明治以降鉄道の重要性が増し,やがては鉄道による輸送が水上輸送を凌駕するに至った。鉄道に関する詳細は次節に譲るとして,ここでは建築に的を絞り,駅舎について述べることとする。

不特定多数の客が利用する駅舎は,安全面や機能性の面から,戦前に建設されたものを使い続けることがむずかしく,鉄骨構造などで新築される例が多い。今回調査対象にあげられた内房線岩井駅舎なども1918(大正7)年に建てられたものであったが,1997(平成9)年に新駅舎に建替えられており,駅舎そのものではなく,駅としての歴史のみが意味を持つ存在となっている。また東武鉄道野田線の初代野田市駅については,1929(昭和4)年に清水公園駅の駅舎として移築され,現在は2代目の駅舎が建っている。清水公園駅に移築された駅舎は1990(平成2)年に老朽化のため解体されたが,その部材が現在も野田市教育委員会により保存され,かろうじて命脈を保っている。

県内に現存する戦前の駅舎の中で,大規模で意匠的に優れたものや,構造的に際立った特徴を持つものは残念ながら見受けられない。しかし木造で規模は小さいながらも,駅舎やホームの屋根にトラスを用いたものや,控え目ながら洋風の意匠を意識して建てられたものはまだ多く存在しており,地方の駅の典型的な姿を示している。大正期の後半から昭和初期に建設された,JR内房線九重駅,外房線安房小湊駅,成田線下総神崎駅,同じく笹川駅,銚子電気鉄道外川駅,そして,いすみ鉄道大多喜駅などの駅舎やホームがその例である。これらの中には保存状態があまり良くないものや大幅な改修を受けたものもあるが,前述した野田市駅のように,ホームの柱に廃レールを用いた駅などもあり,施設・設備を含めた遺構として興味深い。

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軍事と建築

鉄道の発達は人々の生活や一般の産業と密接な関連を持つが,戦前においては軍事とのつながりも大きく,県指定有形文化財となっている千葉市の旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築に実例を見ることができる。1908(明治41)年に建設された本建築は,意匠上頂部のコーニスと開口上部の櫛形アーチの形態に特徴が見られるにすぎないが,重厚な煉瓦造の壁体は圧巻である。

県内にはその他にも軍事関連の建築物が点在している。船橋市の空挺館は1911(明治44)年に騎兵連隊御馬見所として建てられたものであり,木造2階建ての小規模な建物ながら,装飾性豊かな内部空間と整った外観を持つ。これとは対照的なものが千葉市の旧陸軍気球隊格納庫である。用途上装飾性が排除された建築物であり,昭和初期におけるわが国の構造技術を示すものとして興味深い。また館山市には海軍関係の施設がある程度まとまって残っている。海軍航空隊の地下要塞や掩隊壕,戦闘指揮所・作戦室,そして海軍砲術学校の化学兵器実験施設などが当時の状況を生々しく伝えている。さらに県内各地に今も残る煉瓦造の倉庫や木造の隊舎などは,千葉県が軍事的拠点として重要であったことを示している。

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金融・通信施設その他

今回の調査では前述したように,各市町村から予備調査報告のあったものに対象を絞ったが,加えて干葉県が過去に実施した近代建造物実態調査などとの重複を避けるため,敢えて取上げなかった建築物もある。その中で特に重要と思われる金融・通信関係の施設について簡単に触れておきたい。

1914(大正3)年に建設された三菱銀行佐原支店旧本館は煉瓦造2階建てで,隅部にドームをのせたルネサンス様式の建築であり,県の有形文化財の指定を受けている。本建築は現清水建設による設計・施工である。明治期に横浜・東京で活躍した清水喜助により創始された建設会社が大正期以降大きく発展していく中で建設されたものであり,日本の建設業の近代化の過程をも示しているといえよう。佐原にはこの他にも現在第百生命佐原営業所となっている旧千葉銀行佐原支店のような戦前に建てられた鉄筋コンクリート構造の銀行や小規模なモルタル塗りの店舗なども残っている。また1918(大正7)年,矢部又吉の設計により建てられた,ルネサンス様式を基調とした煉瓦造2階建ての旧川崎銀行佐倉支店も県指定有形文化財として保存されている。矢部はドイツに留学し,帰国後設計事務所を開いて,銀行建築を数多く設計した。古典主義の様式を得意とする建築家であった。同じく彼が設計した旧川崎銀行千葉支店は,1927(昭和2)年竣工の鉄筋コンクリート構造の建物であり,ファザードを特徴づけるイオニア式オーダーが印象的であったが,現在は新築の千葉市中央区役所に組込まれ,保存再利用がはかられている。

通信関係では1926(大正15)年の旧日本電信電話公社検見川無線送信所や昭和初期の建設といわれる我孫子市の気象庁予報部無線通信課気象送信所庁舎など鉄筋コンクリート構造のものがあり,特に前者は数少なくなりつつあるドイツ表現派風の建築として貴重である。また香取郡多古町の旧多古郵便局は1942(昭和17)年に建てられた木造2階建ての小規模な建物であるが,モルタル塗の外壁の腰にスクラッチタイルを貼り,玄関廻りをレリーフで飾るなど,凝った意匠が施されている。産業・交通という絆ではとらえにくい建築ではあるが,地域との関わりの大きさを考え,今回の調査で対象として取上げることとした。

(江口敏彦)

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参考文献

1) 千葉県教育委員会:千葉県近代建造物実態調査報告書,1993年
2) 総監 日本の建築2,関東新建築社,1989年