第3節 交通関係施設に見る千葉県産業・交通遺跡の特色

交通路としての千葉県の特徴は,その大部分が半島で占められているという地形的制約から,その延長線上に他の目的地を持たない言わば袋小路のような構造になっているという点にあると言える。このため,関東周縁の他の県が街道筋を軸として発展を遂げているのに対し,県北を掠める水戸街道を除くと主要な街道筋から外れて位置しているのである。こうした特徴は,現在に至るまで千葉県の交通網を色濃く支配しており,基本的に単独の県で独立したネットワークを形成している全国でも特異な県のひとつである。

千葉県の交通施設を支配するもうひとつの要因は,房総半島南部の新第三系を除いて大部分が第四紀の丘陵地形によって占められ,利根川を除いて大きな河川も存在しないという点である。このため,長大な橋梁やトンネルといった大規模な構造物を必要とせず,比較的容易に路線網を拡大することが可能であった。

こうした千葉県固有の特徴は,交通施設の近代化遺産という観点から見ると,大きなハンディキャップと言わざるを得ない。交通路として他県との交流も少なく,千葉市を除いて大きな都市や分岐点を発展させることができなかったことは,人の往来や物流のための施設を発達させる下地に乏しかったと言える。また,構造物が「立派である」とか「特徴的である」ということが概ねその規模に比例すると仮定するならば,そのようなモニュメンタルな構造物を建設する必要性に恵まれなかったということになる。

だからと言って,千葉県の交通施設に全く特徴が見られないということにはならない。利根川や江戸川を中心として発達した河川舟運は,千葉県に鉄道が敷設されるまで江戸・東京への物資を運ぶための幹線として重要な役割を果たした。また,主要街道から外れていたとはいえ,脇街道は県内を結ぶネットワークとして機能した。千葉県における交通施設の特徴は,悉皆調査が完了した時点でさらに包括的な評価がなされるべきと考えられるが,現時点において想定される千葉県の交通施設の特徴について,鉄道施設を中心としていくつかのトピックを挙げてみたい(舟運,街道については第4節を参照)。

<目次に戻る>


構造物の使用材料と干葉県

千葉県における鉄道の発達史は,1894(明治27)年に開業した総武鉄道の市川〜佐倉問の開業をもって嚆矢とする。これは,新橋〜横浜間の開業に遅れること22年目にあたり,関東地方では最も「遅い」鉄道の開業であった。その後の鉄道建設は急ピッチに行われ,明治末期には佐原,銚子,大原など,主として県北および外房線の一部に鉄道網が築かれた。続いて大正になると房総半島を一周する鉄道の建設が本格的に開始され,1929(昭和4)年に現在の内房線と外房線が結ばれた。また,民営鉄道も国有鉄道を補完する形で線路網を伸ばし,昭和初期にはほぼ現在の鉄道網が完成した。こうした経緯により,明治期に完成した鉄道沿線には,(後に線増・高架工事によってほとんど改築された東京〜千葉間を除いて)煉瓦や石積みの構造物が今なお分布し,大正期にコンクリート構造へと置き換わって昭和にはすべてコンクリートとなった。こうした傾向は他の地域でも認められるが,千葉県では外房線,内房線がちょうどその転換期に建設されたため,トンネルや橋梁などの構造物を丹念に追うことによって煉瓦・石積み材料からコンクリート材料への変化を知ることが可能である。特に,1926(大正15)年に建設された内房線江見〜太海間の山生橋梁(鴨川市)は,鉄桁では波浪による塩害を受けるため,鉄道用としてはわが国最初の本格的な鉄筋コンクリート桁を採用した橋梁として知られており,鉄道橋梁の技術史に新たなページを開いたパイオニア的存在となった。設計は,鉄道省大臣官房研究所の柴田直光により行われ,工事概要はイギリスの雑誌「Concrete and Constructional Engineering」の1930年2月号に報告された。

<目次に戻る>


分岐駅と千葉県

埼玉県における大宮や,群馬における高崎が鉄道の分岐点としてそれぞれの県都にも優る発達を遂げたのに対し,千葉県におけるそれは千葉を除けば,佐倉,成田,大網,成東などいずれも規模は小さい。しかし,数だけで比較するならば分岐駅の数は多く,網目状に路線を張りめぐらせた千葉県の鉄道網の特徴をよく表している。こうした鉄道の分岐駅の存在は,列車の運行形態を支配する重要な要素であり,その構内配線や分岐方向などに様々な工夫や苦労の跡が見られ,それぞれの線区の歴史的発達過程に大きく支配されて今日に至っている。

<目次に戻る>


中小民鉄と千葉県

千葉県における民鉄は,国有化された総武鉄道,東京と千葉を結ぶ京成電鉄などを除けば,小規模の民鉄が国有鉄道からさらに分岐する形で発達したに過ぎない。その多くは既に廃止されてしまったが,成宗電気軌道のトンネルのように遺構として残存しているものも数多い。また,中小の民鉄は,国有鉄道や大手私鉄から払い下げられた車両を使用することが多いため,現存する車両の中には珍しいものも含まれている。とりわけ,銚子電鉄のドイツ製電気機関車デキ3(元・宇部炭坑)や,小湊鉄道の保存蒸気機関車のような貴重な車両もいくつか存在する。

<目次に戻る>


産業用鉄道と千葉県

千葉県は,東京と千葉を結ぶ京葉臨海工業地帯沿いにいわゆる臨海鉄道が発達しているが,その大半は戦後に建設されたもので,京浜工業地帯沿いのそれに比べると歴史は新しい。しかし,その建設にあたって他から転用した橋梁にはユニークなものがあり,京葉臨海鉄道村田〜市原分岐点に架かる村田川橋梁は,東海道本線大井川橋梁から転用された支間200フィートクラスのシュウェードラートラスで,1911(明治44)年に米・アメリカン・ブリッジ社で製造されたものである。このトラス桁は,アイバーと呼ばれる部材を用いたアメリカ型ヒントラスとして,全国的にも貴重な存在である。また鉄道車両としては,銚子市のヤマサ醤油に,わが国現存最古のドイツ製内燃機関車が良好な状態で保存されているほか,川崎製鉄千葉製鉄所で使用されていた戦後製の蒸気機関車も千葉市内で保存されている。

<目次に戻る>


軍用鉄道と千葉県

千葉県の鉄道を語る上で,鉄道連隊の存在は特筆されるべきであろう。戦地における補給路としての鉄道を速成するための特殊部隊として発足した軍隊の中でもユニークなこの組織は,千葉に第一連隊,津田沼に第二連隊を置き,延長約50kmにおよぶ演習線を保有していた。終戦後にその一部を利用して新京成電鉄が開業したことはすでに多くの文献で述べられた通りであり,その線形の一部にかつての名残をとどめている。また,ここで使用された機関車などの一部は津田沼駅前をはじめ全国各地に保存されているほか,鎌ヶ谷市東道野辺6丁目と7丁目の境界には旧演習線の橋梁下部構造が遺構として残っている。このほか,富津岬にはわが国唯一と言われる列車砲の軍用線が存在したが,その遺構の有無は現在までのところ未確認である。

(小野田 滋)

<目次に戻る>


参考文献

1) 小西純一,西野保行,淵上龍雄:“明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状(第5報)−米国系トラス桁・その2−”「第9回・日本土木史研究発表会論文集」,土木学会,1989年
2) 白川淳:全国保存鉄道II,日本交通公社,1994年
3) 白土貞夫:ちばの鉄道一世紀,崙書房,1996年

<目次に戻る>  <第2章第4節へ>