第4節 土木関係施設に見る千葉県産業・交通遺跡の特色

わが国の近代土木技術の黎明

欧米諸国における産業革命以降の近代化の波は,幕末期を迎えたわが国にも大きな影響をもたらすこととなった。その後の明治新政府は,欧米諸国の進んだ技術を移入することに積極的に取り組み,「お雇い外国人」と呼ばれる多くの技術者を高給で雇い入れ,技術の移転に努めた。

わが国における近代の土木施設は,明治新政府の富国強兵・殖産興業政策を推進するための重点課題として,新政府の強力なリーダーシップの元に建設された。特に,国の骨格をなす交通基盤(鉄道,港湾等)や,産業基盤(鉱山,農業等),さらには国土保全基盤(治山・治水等)の整備に新たな土木技術が導入されるようになった。まさしく近代の土木関係施設は,欧米諸国の先進的技術を導入しながら,わが国の近代化を支える社会基盤施設としての位置づけを明確にしてきた。

一方で,明治新政府は,強力な中央集権体制の確立を指向していたにもかかわらず,常に財源不足に悩まされていた。そのため,当然のことながら,投資効果を最大限に発揮させるための施設,すなわち富国強兵・殖産興業に即時的な効果をもたらす社会基盤施設の整備に重点が置かれた。

幕末期に欧米列強への備えとして建造された砲台・台場が長崎,函館や東京湾等で見られる。明治政府は国土防衛のため,全国の拠点に鎮台を設置し,また北辺警護のため北海道には屯田兵を入植させた。こうした軍事上の拠点と首都東京との交通ネットワーク整備に集中的に投資がなされた。

こうした交通基盤整備は殖産興業政策とも連動して,まず海上交通・河川交通に重点が置かれた。特に開港した函館・横浜・新潟・神戸・長崎では,外国人居留地の都市基盤整備と一体となって港湾整備が行われた。また,江戸時代に形成されていた沿岸航路と内航水運のネットワークを強化するために,野蒜港(宮城県),三角港(熊本県)などの拠点港湾の新設や三国港(福井県)などの在来港の近代化,さらには北上・東名運河や利根運河の建設に着手した。次に陸上交通では,こうした港と内陸部を結ぶ幹線道路の整備や,両京間(東京・京都)連絡道路などの拠点都市間の整備が行われた。こうした道路整備に伴い,橋梁や隧道に近代土木技術が導入された。また1872(明治5)年に新橋〜横浜間に初めて開通した鉄道は,その後陸上交通としての利便性が認識されるとともに全国の拠点都市相互の接続や地域振興の手段として建設が進められ,明治末期にはほぼ全国幹線鉄道ネットワークが形成されるようになった。

一方,千葉県では1894年(明治27)年に,総武鉄道会社によって市川〜佐倉間が開業し,以後,千葉県の鉄道整備が進んだ。

国土保全事業としての利水基盤整備では,まず東北地方など江戸時代に未開発地域の農業基盤整備が進められ,青森県の三本木原台地や福島県の安積(猪苗代)疏水の整備が行われた。次に開港した5都市などで都市基盤整備が進められ,近代水道事業はこうした都市から進められた。

このようなわが国の近代土木技術の黎明期にあって,千葉県は自然環境に恵まれていたため,近代土木技術の面からは,大きく立ち後れることとなった。こうしたことから,千葉県では近代土木遺産として特筆される施設が少ないことが特色と言える。

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千葉県における近代の土木技術をめぐる動静

多くの土木技術の発達は,地形的条件の克服から始まる。千葉県に特筆すべき近代土木遺産が少ない要因は,地勢的条件によるものであろう。

千葉県は,その領域の多くが関東平野に属し,北部・西部の県境に大河川が横たわっているものの,県内の多くは中小河川と小平野であり,房総半島に広がる山地も低い丘陵地にすぎない。また気候温暖なことから,縄文・弥生の頃から人々は住み良い自然環境の中での生活を享受してきた。これが,中世・近世と歴史を重ねるにつれて,いたるところに農漁村ができ,交通の要衝には小さな商業町が育った。明治中期以降,国内に産業革命が広く進展し,東京などの大都市に人口が集積していく中でも,千葉県は第一次産業中心の産業構造は基本的に変化することはないまま,戦後をむかえることになった。そのため,千葉県における社会基盤施設としての近代の土木施設は,その多くが小規模であり,近代的土木技術の必要性が稀薄であったことが特色であろう。

また一方では,首都東京に隣接しているという,千葉県の位置性,すなわちある意味では地理的有利性によって住民生活が展開してきた。明治期の東京は,急激に人口が集中しはじめ,その結果,西南部への都市的拡大現象が生じた。しかし,干葉県と接する東部は,低湿地や大河川が横たわっていたため,拡大現象が遅れた。東京と千葉県を結ぶ総武本線は,戦前(1935(昭和10)年)に電化されたものの,常磐線の電化は戦後であることから,今日の千葉県北西部の東京化現象は,戦後になって急速に生じたものである。

こうした中で千葉県の近代土木技術として特筆すべきは,利根運河である。

利根運河は,お雇いオランダ人技師ムルデルが計画から施工まで一貫して指導にあたり,1890(明治23)年に完成した。利根運河は,明治政府が目指した,近世以来の輸送手段として活用された舟運体系を継承しながら,舟運による近代的な運輸体系の整備を目的に,河川舟運の維持を図る低水工事として実施された。特筆すべきは,明治政府の財源難もあって,計画の実現を民間資本で取り組んだことである。いわば国家プロジェクトを民間活力で成し得たケースであり,こうしたケースは同時期の社会基盤施設整備の国家プロジェクトとしては,幹線鉄道建設事業を数える程度である。

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地理的条件からみた土木関係施設の特色

土木学会では,近代土木遺産の調査を進める中で,土木関係施設が有する公共性,実用性,類似性の理由から,客観的に評価することの重要性を提示している。そして,その評価軸としては,技術,意匠,系譜の3点を取り上げている。技術評価では,年代の早さ,規模の大きさ,技術力の高さ,珍しさ,典型性の5項目を挙げている。意匠評価では,様式との関わり,デザイン上特筆すべき事項,周辺景観との調和,設計当初のデザインに対する意識の高さの4項目を挙げている。また系譜評価では,地域性,土木事業の一環としての位置づけ,故事来歴,地元での愛着度,保存状態の5項目を挙げている。

これを千葉県の近代の土木関係施設に対応した場合,技術評価,意匠評価で特筆すべきものは,利根運河を除いて見あたらない。系譜評価においても全国的視点で見ると必ずしも特筆されるものは多くない。逆にいえば,それが千葉県の近代の土木関係施設の特徴となっている。

このことは,必ずしも悲観すべきことではなく,千葉県固有の特徴として特筆されるべきであろう。換言すれば,近代における千葉県では,先進的土木技術の導入をせずとも十分に豊かな生活が保障されていたとも言えよう。

そうした中で,今回の調査で取り上げられている土木関係施設は,中小河川を利用した農業振興と水運に関する施設と,生活関連型・都市型産業を支える水道施設である。

市原市にある養老川西広板羽目堰は,養老川下流部に築造された木造の潅漑用堰の一つであるが,洪水時には堰を決壊させ,部材を消失することなく回収して再利用する仕組みとなっている。こうした技術は,地元の保存会によって大切に保存されている。現在は周辺の都市化により,当初の目的こそ失せたものの,保存会によって毎年,築造・開放が行われて市民に公開されており,技術の伝承と社会学習の点で特筆される。

松戸市にある柳原水閘は,江戸川の水の逆流を防ぐ目的で建造された楝瓦造りの4連アーチ水門である。柳原水閘は,楝瓦アーチの優美なデザインとしての評価のほか,関東平野に残る楝瓦アーチ水門群の系譜を知る上でも貴重な文化財であり,隣接する3連楝瓦アーチの小山樋門とともに貴重な存在である。

千葉県は水資源に恵まれていたため,近代水道の始まりは遅く,1934(昭和9)年に県営水道の計画がたてられた。この計画の施設として現存するのが,1937(昭和12)年に建設された都川給水塔(千葉市)と栗山浄水場配水塔(松戸市〉である。両施設とも鉄筋コンクリート造りの塔であるが,都川給水塔は当時流行したアール・デコ風のデザインによる建造物である。わが国初の近代水道施設は,1887(明治20)年に横浜で建設され,その後,外国人居留地のある都市で広まり,1890(明治23)年の水道条例の公布を受けて全国の主要都市に普及した。そうした中では,千葉県の水道の近代化は遅れたことになる。

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近代における千葉県の土木関係施設の見方

近代における千葉県の土木関係施設の見方で大切なのは,地域性である。すなわち,その土木関係施設は地域にどう役だったのか,また地域はどのように土木関係施設を受け入れたのかである.実際,土木施設にとって一番大切なポイントは,このことである。

千葉県は,大部分が太平洋に突き出す半島で占められており,急峻な地形がほとんどなく,気候温暖で,かっ首都東京に隣接するという地理的条件を有している。そのため,戦前に至るまで第一次産業が産業構造の中心であり,それに付随して?油などの醸造業や缶詰などの水産加工業といった食品加工産業が発達した。また一方で,首都東京の軍事上の防波堤として,戦略上の要衝でもあった。土木関係施設の見方としては,こうした地域の持つ社会的背景やポテンシャルを把握することは大変重要であり,例え技術的価値では第一級とは言えなくとも,異なる視点でとらえると評価の高いことが多くある。

そうした中で,千葉県の土木関係施設を考えると,以下の点が指摘できよう。

農業の近代化の中で培われた身近な土木関係施設に焦点をあてること。わが国の農耕は,特殊なムラ社会の中で共同利用施設に依存するケースが多い。特に土木関係施設は,規模の大きさから個人の所有物ではなく,共同管理となることが多い。すなわち,技術的には特色がなくても(一般性の高い構造物でも)その地域の農業生産を飛躍的に増大させたりすることが多い。今回の調査では,必ずしもリストアップされておらずとも,農業生産との関連でとらえると価値の高い土木関係施設(特に利水施設)が多く存在していることが予想される。

漁業の近代化は,船舶の大型化や採取方式の共同化・組織化に発展する。それに伴い,漁港の近代化が進められることになる。すなわち,漁港施設に焦点をあて,漁村との関わりの視点で価値の高い土木関係施設(防波堤,岸壁,灯台など)の存在が予想される。なお,銚子市の犬吠埼灯台は,交通・土木施設としても県内を代表する第一級の施設である。平地の多い千葉県では,河川舟運が産業の近代化を支えたことが予想される。特に利根川・江戸川に隣接する地域では,明治期の交通の中心として河川舟運で栄えた都市が多いことが予想される。残念ながら,河川舟運の土木関係施設(河岸など)は,全国的にみても現存するものが少ないが,遺構の存在が確認できればそれだけでも貴重な史料となろう。

県内には多くの掩体壕や滑走路跡などの軍事施設の遺構が現存するが,千葉県の地域性の特色として避けては通れないだろう。

このような地域性の視点で土木関係施設をとらえる場合,そこに伝承される儀式や祭りに着目することも重要である。儀式や祭りの存在は,その土木関係施設が地域に受け入れられたことの証明とも言えるからである。そうした観点では,養老川西広板羽目堰保存会の活動は特筆される。

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土木関係施設からみた千葉県の特色

近代における千葉県の土木関係施設の特色としては,以下の点が指摘できる。

千葉県は,明治政府の富国強兵・殖産興業政策の重点地域からはずれたため,当時の基幹産業が未発達であったが,一方では大消費地としての首都東京に隣接しているため生活関連型産業が発達した。しかしながら,生活関連型産業では,大規模な社会基盤施設の整備に対する必要性に乏しかったことから,技術的に特色ある土木関係施設は少ない。

千葉県は,太平洋に向かって,首都東京を防御する自然の要衝としての地理的条件から,軍事・通信関連施設に伴う土木関係施設が存在している。

千葉県は,近代の土木技術上では評価される施設に乏しいが,それは逆に近代的土木技術を必要とすることなく,十分な生活環境が確保されていたことにほかならない.換言すれば,千葉県は,地域密着型の土木関係施設の宝庫であると予想できよう。

戦前の千葉県の土木関係施設の特色は,上述のとおりであるが,これが戦後になると様相を一変する。

戦後の千葉県では,東京湾岸の大規模な埋め立てによる臨海工業地帯の建設と県北西部の急激な都市化による交通・都市基盤の整備,さらには新東京国際空港(成田空港)の開港,東京湾アクアライン等,最新の土木技術が注ぎ込まれてきた。こうした急激な発展を可能にしたのは,戦前までの土地利用形態が農地主体であったため,市街地密集地帯の面積が少なかったことが大きな要因の一つであろう。すなわち,わが国の戦後の高度経済成長を歴史に刻む土木関係施設が,多く存在していると言えよう。その一・方で,近代の千葉県を物語る土木関係施設の多くが,記録にすらとどめられず時代の要求の中で喪失している。

成熟化社会を迎えた現在こそ,千葉県の文化を後世に伝える教材としても,近代土木遺産の保存を進める必要があろう。

(為国孝敏)


参考文献

1)土木学会編:人は何を築いてきたか一日本土木史探訪,山海堂,1995年
2)文化庁歴史的建造物研究会編:建物の見方・しらべ方一近代土木遺産の保存と活用,ぎょうせい,1998年
3)土木学会土木史研究委員会編:地域資産としての近代土木遺産シンポジウム,土木学会,1998年
4)日本地誌研究所編:日本地誌第8巻 千葉県・神奈川県,二宮書店,1967年 

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