きゅうひたちこうくうき(かぶ)ちかこうじょうあと

25 旧日立航空機(株)地下工場跡 


大網白里町

産業関係・その他・工場

トンネル幅4m,高さ4m
1945(昭和20)年

日立航空機株式会社(以下日立航)は1939(昭和14)年5月,日立製作所から分離独立し,1941(昭和16)年1月より終戦までに発動機14機種,延べ数13,571基,機体4機種,延べ数1,783機を生産した。その期間の日本における総生産数のうち前者で11.6%後者で2.6%を占めるにすぎず,しかもその機種はいずれも主として練習機用小型発動機及び練習機機体であった。ところが,戦局の推移に伴ない,戦闘機機体及びその発動機の生産に移行する予定であったが,終戦を迎えた時点では戦闘機用の機体及び発動機はともに未だ実験段階の域を出ていなかった。

日立航は1944(昭和19)年12月に入って広範な疎開計画に着手した。千葉,立川の2大工場は主として地下,半地下工場と学校建物の活用を念頭に置いて広範囲にわたって適地の調査が行なわれた。千葉工場(千葉機体製作所)の主たる疎開先が大網地下工場であり,入念かつ緻密に計画された。掘削範囲は44,938m2に及び,終戦時にはおよそ40%の進捗率であり,もし完成すれば構築されたトンネルと半地下工場は当時日本でも優れた疎開工場の1つになっていただろう。

現在の大網地下工場跡はJR外房線の大網駅の北北東約1.5kmの地域に展開し,東西に約1km,南北に約1.5kmに及ぶ広さである。この地域は宮谷,相ノ谷,門ノ谷,栗山,小川,名谷,安楽地谷,真行谷等の地区から成り,集落が散在している。特に宮谷地区は古く宮谷檀林で知られ,また宮谷県庁所在地として「県史跡」に指定されている本国寺をはじめ,多くの文化財,旧跡の残るところである。現地はその地区名からも推察できるように,幅の広い台地斜面が樹皮状に伸びた地形で,幅の狭い尾根と奥行のある谷間の平地が続く。海抜はおよそ30〜70mで,笠森層と呼ばれる固くしまった泥質の細粒砂岩層で内部の新鮮な面は青灰色の軟岩である。

大網地下工場は第1工場から第5工場までの5ブロックに分けて計画されたと推定される。第1工場は宮谷と名谷,第2工場は宮谷と安楽地谷,第3工場と第4工場は相ノ谷の平地に面して,その両側の丘陵に掘削されている。第5工場は宮谷地区のみであり,いわば地形上は3系統の丘陵を横断して築造されている。地下工場はトンネルでありこれらトンネル群の総延長は3km以上に及んでいる。

こうしたトンネル工場の特徴は第1にその形状であり,幅約4m,高さも4m以内である。第2に多量の水分を含んでおり,戦後50年以上を経過する今でもトンネル内部では水滴の音が響いている。第3は両壁等に刻まれたスコップやつるはしの跡が今でもくっきりと残っている。第4は道路である。地元の人々は造成された道路を軍用道路と呼び,この軍用道路の他にもトンネルの土砂で無造作に畑を埋め,また拡幅された道路は数多くあったという。現在では殆どが復元され,判然たる形で残っているのは数本である。

(内山久雄)

地形図 「東金」(略)

写真25-1 トンネル工場跡地
(1945年〜1947年に撮影されたもの−写真提供 日立鵬友会)
写真25-2 現在のトンネル工場入口(1993年) 
(写真提供 黒須俊夫氏)
写真25-3 現在のトンネル工場の内部(1991年) 
(写真提供 黒須俊夫氏)

参考文献

1) 黒須俊夫:「日立航空機」大網地下工場の幻影,千葉史学,第244号,1994年5月
2) アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告:太平洋戦争中の日立航空機株式会社,日立航空機株式会社報告No.VII,1947年2月


Back
Home
Up
Next