みやしろけそうこ

24 宮城家倉庫


銚子市

産業関係・商業・倉庫

煉瓦造・平屋
明治〜大正初期

この倉庫は,代々河岸問屋を営んでいた宮城家の倉庫として使用されていたものであり,柱や梁は木造で外壁は煉瓦である。中の構造は平屋であるが一部に中2階部分があり,はしごで登るようになっている。入り口は2カ所あり,片方の入り口には木製の庇が現在でも残っている。入り口部分の上部は煉瓦でアーチ型に組んであり,倉庫の裏手には,やはりアーチ型で鉄格子のはまった窓が2カ所ある。屋根は瓦である。残念ながら1996(平成8)年の台風で倉庫の一部(裏側)の煉瓦が崩れ骨組みがむき出しの状態になってしまっている。宮城家当主の宮城喜明氏によれば,現在取り壊すかどうか検討中とのことである。

宮城家は,初代喜三郎が1851(嘉永4)年12月に独立したことに始まる。以後,四代目まで喜三郎を襲名していた。当初宮内を称し,のち宮城と改姓している。初代喜三郎が婿となった宮内利右衛門家は,戦国時代に千葉氏配下の商人頭として活躍した宮内清右衛門(江戸時代は高田名主)の一族と考えられ,代々河岸問屋を営んでいたと思われる。

宮城家のある銚子市高田町は,銚子市の北西部中央寄りに当たり,地内を北西から南東へ国道356線が通り,北部は利根川に面している。宮城家は高田町のほぼ中央,高田河岸があった利根川べりに位置し,国道356号線に面する。高田河岸は利根川沿いの河岸の一つで,隣接する野尻・小船木河岸とともに「三河岸」と呼ばれ後背地も共有していた。第二次世界大戦後になると利根川は,1949(昭和24)年から1955(昭和30)年前後に最盛期を迎える浚渫工事と1971(昭和46)年に竣工した河口堰の建設によって河口付近の水位が低下し,高田河岸は姿を消して河川敷となった。現在,宮城家屋敷地と利根川の間は幅約200mほどの河川敷であるが以前は接近しており,宮城家は高田河岸の桟橋に直結していた。もっとも,1917(大正6)年刊行の「千葉県海上郡誌」は高田河岸が栄えていたのは明治時代までで,大正年間には衰退していたことを記している。

(池田文彦)

地形図 「鹿島矢田部」(略)

写真24-1 倉庫裏側,一部壁がくずれている (1996年) 写真24-2 宮城家の庭から倉庫正面を望む (1996年)

参考文献

1) 千葉県文書館:収蔵文書目録第八〜九集,銚子市高田町宮城家文書目録(上・中・下),千葉県文書館,1996〜1998年


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