ひがしにほんあわこみなとえき

52 JR東日本安房小湊駅


天津小湊町

交通関係・鉄道・駅舎

延面積179.2平方m
1929(昭和4)年

明治期,千葉県内の鉄道網は県北部を中心に整備されたが,1906(明治39)年に鉄道国有法により県内の幹線であった日本鉄道(現常磐線),総武鉄道(千葉〜銚子間),房総鉄道(千葉〜大原間,大網〜東金間)が国有化された。国有後の千葉〜大原間は,房総線と改められた。1910(明治43)年には鉄道施設法の改正により蘇我から木更津,勝浦を経て大原へ抜ける房総半島の環状線構想が打ち出された。1913(大正2)年には,大原〜勝浦間13.5kmを延長するが,当時は木更津線,北條線と呼ばれた内房線建設に比べ,地形上難所が多い外房線は,トンネル開削,架橋工事などで建設は遅々として進まなかった1)。

当時の小湊や天津,鴨川へは東京湾汽船が東京湾沿岸に寄港を繰り返しながら,野島崎を回って航路が延びていたが,一日一便しかなく,東京〜小湊間は13時間近くを要したうえ,海が荒れれば欠航するという状態であった。

その後,1927(昭和2)年に14年ぶりに勝浦から南の鉄路が完成し,上総興津まで6.3kmが開通した。さらに1929(昭和4)年には,おせんころがしの断崖を避けてトンネルで抜け,上総興津〜安房鴨川間16.0kmが開通した。これにより,当時北條線と呼ばれていた現在の内房線とつながり,房総半島を一周する鉄道が全通して,房総線と名称が統一された1)。

こうして天津・小湊地域は,千葉・東京方面と鉄道交通により結ばれ,天津・小湊〜両国間は勝浦廻りで約4時間となった2)。

房総半島を一周する鉄道の開通は千葉県の交通や産業に大きな変革をもたらした。南房総と東京・千葉の間が日帰り可能となったばかりではなく,観光やレジャーのサービスも充実がすすんだ。

安房小湊駅の駅舎は,この時の房総線上総興津〜安房鴨川間の開通と同時に開業した。駅舎の原形はそのままであるが,改修は部分的に行われている。

当時の写真をみると,同時に開業した安房天津駅舎とも似かよったデザインであったが,安房天津駅は,現在では建て替えられてしまっている。また,開業当時は,房総線の名称で開通したが,1972(昭和47)年の電化とともに外房線に改称した。

現在安房小湊駅は,上り23本,下り24本の停車列車があり,外房線特急を利用すると東京まで約2時間ほどである。また,1996(平成8)年現在の1日の平均乗車人員は約400人である。

(小早川 悟)

地形図「安房小湊」(略)

写真52-1 安房小湊駅舎 (1997年) 写真52-2 安房小湊駅ホーム (1997年)
図52-1 安房小湊駅舎平面図〔JR東日本 千葉支社)

参考文献

1) 白土貞夫:ちばの鉄道一世紀,崙書房出版,1996年
2) 天津小湊町町史編集委員会:天津小湊,天津小湊町,1994年


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