なんそうてつどうきどうあと

54 南総鉄道軌道跡 


長南町
交通関係・鉄道・軌道

昭和初期

南総鉄道は房総鉄道株式会社(その後国鉄に吸収)による1897(明治30)年4月17日茂原駅の開設をその発端としている。これにより長生郡西部地方(長南方面)から茂原駅への人や貨物の輸送が頻繁になった。しかし,西部地方の住民は茂原駅のみの開業では不満に感じ始め,直接鉄道を引き込む人車軌道の新設の要請が強まった。この結果茂原駅前〜長南地蔵町まで,千葉県の事業として鉄道連隊の手で軌道が敷設された。

1909(明治42)年10月全通,1日5往復程度,片道15銭であったが,その後ハイヤーやバスの登場,自転車の増加,貨物の不振で大正13年には廃止せざるを得なくなった。

大正中期は私鉄建設ブームであり,鉄道のない長南町や鶴舞町方面の有志がブームに刺激されてか,または人車軌道の失敗の挽回だったのか,茂原駅〜長南町〜鶴舞町間に鉄道免許をとり,1926(大正15)年9月15日に,資本金43万円余,社長糸井玄,本社を藻原寺(のち水上村笠森寺下)とする南総鉄道株式会社が設立された。

しかし地元からの資本集めが非常に難しく,5年を要して1930(昭和5)年8月1日に国鉄茂原駅〜笹森寺間112kmを汽動車にて営業が開始された。さらに引き続いて1933(昭和8)年2月1日に笠森寺〜奥野間10kmが延伸された。

ここから鶴舞町への路線は丘陵となっており建設が困難であったが,平坦な牛久町へのコースをとらなかったのは,鶴舞に有力な少数の株主がいたためといわれている。沿線の町といえば長南町くらいで,板東31番の笠森寺への参詣客も少なかった。後に収益を上げる策として,貨物輸送とバスの運行を開始したが,バス・貨物とも需要が少なく,加えて当時の経済界の不況が重なり,1939(昭和14)年2月末廃止の止むなきに至った。

1935(昭和10)年12月の時刻表によると,茂原〜奥野11往復,笠森寺〜奥野2往復,全線所要33分,運賃31銭で,茂原−高師−本茂原−昌平町−藻原寺−上茂原−須田−米満−豊栄−千田−長南−蔵持−深沢−笠森寺−奥野の各駅を経由していた。なお廃業時には機関車1,客車3,貨車2を有していた。

笠森寺御開帳のときに,房総東線から直通客車を牽いて活躍した華やかさもあった。

(内山久雄)

地形図 「舞鶴」「上総一宮」(略)

写真54-1 鉄道敷設跡地全景(1997年) 写真54-2 橋脚跡(1997年)

参考文献

1)茂原市史編纂委員会編:茂原市史,茂原市,1966年


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