たてやまかいぐんほうじゅつがっこうあと

85 館山海軍砲術学校跡


館山市

その他・軍施設

1941(昭和16)年

館山海軍砲術学校は,陸戦および陸上防空の教育訓練を目的に,1940(昭和15)年,横須賀海軍砲術学校の分校として設立準備され,翌16年6月1日に館山市郊外の神戸村佐野(現館山市佐野〉に開校した。

広い砂浜をもつ平砂浦が隣接していたため,そこが演習場として使用され,主として陸戦隊の幹部要員の養成を目的としていた。

兵科は,陸戦科・対空科・化学兵器科に分かれ,館山海軍砲術学校で専門教育を受けた兵科予備学生は,一期から五期までで,陸戦科1,348名,対空科2,444名,化学班249名である。予備学生のほかにも普通科練習生,高等科練習生,陸戦隊および防空隊の新編部隊,さらに指揮官の教育訓練など,内容は多岐にわたっていたといわれる3)。

教育内容をみると,陸戦科では,学校前に広がる平砂浦演習場における攻撃や防御,水陸両用戦車などの教育訓練を中心としていた。太平洋戦争初期の段階では敵前上陸の訓練に力がいれられていたが,戦局の悪化とともに,対戦車訓練や夜間挺身奇襲戦闘などの実戦に備えた訓練に重点が移った。学校の西側と東側の丘陵上には高角砲の砲台が構築され,対空科はここで,高射射撃指揮と砲員の操作訓練を行っていた。

1944(昭和19)年,房総半島全域が本土決戦の重点地域になると,館山海軍砲術学校は「館山警備隊」となり,砲台構築に力を注ぎ,対空防備の拡充に全力を傾けるようになる。訓練は,陸戦と対空のみにしぼられ,短期養成の士官を次から次へと前線に送っていった。しかし,平砂浦が米軍上陸地点のひとつに想定されていたため,終戦間際の1945(昭和20)年7月に学校は閉鎖された。

戦後,この施設を利用して房南中学校が開校し,旧兵舎は1969(昭和44)年まで校舎として利用されていたが,現在は改築されている。このほか同校の東側に,パラシュート降下訓練用プールとボイラー室が,また裏山の丘陵には,高角砲の砲台跡,格納庫跡等が残っている。

(杉江 敬)

地形図 「館山」(略)

写真85-1 パラシュート降下訓練用プール(1999年)

参考文献

1) 館山市史編さん委員会:館山市史,館山市,1971年
2) 館山市立博物館:地区展シリー・湾要塞地帯に戦争の傷跡をみるー,館山市館山地区公民館,1997年


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