4. 京都時代
 明治35年(1902)に帰国した浅井忠は、新設の京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授に就任しするため、一家を挙げて京都に移住し、40年(1907)12月に51歳で亡くなるまでの5年3ヶ月余りを京都で過ごしました。
 京都での浅井は、36年(1903)に聖護院洋画研究所(39年(1906)には関西美術院に発展)を開設して後進の指導に情熱を注ぎながら、京阪の洋画家を中心に結成された関西美術会を通じて、京都の洋画壇の活性化と発展に尽力する一方、自ら図案や工芸の制作にも精力的に取り組み、当時の京都の工芸界に影響を与えました。

 「農家」
「京都高等工芸学校の庭」
「中沢岩太像」 「老母像」


 
「東宮御所壁飾草稿2」 「花」 「農家風俗画手塩皿」

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