第6章 三番瀬の歴史



三番瀬の地形発達史 ―10万年前から―

 氷河の拡大、縮小により、東京湾の海面も上下を繰り返し、海だった所が陸地化し、川が流れ、谷が形成されました。再び海面が上昇し、内陸まで入江が入り込みます(縄文海進:じょうもんかいしん)。約6,000年前からは海面の高さは安定し、河川上流から土砂などの堆積物や海流によって、入江は自然に埋め立てられ、河口に三角州(さんかくす)が形成されました。江戸川の河口に出来た三角州が浦安の大三角州(ディズニーランド付近)であり、それに続く干潟が三番瀬となります。
 江戸時代以降、江戸の町や港の整備、水害対策として、東京湾に流入していた利根川などの河川付け替え、放水路・運河の掘削工事がおこなわれました。
 明治以降、埋め立てによる臨海工業地帯の造成は、1930年(昭和5年)頃まではそれほど大規模ではありませんでした。

江戸時代の三番瀬

 地名としての三番瀬は15世紀中頃、大田道灌(おおたどうかん)によって江戸城が築かれた頃には既に「字(あざ)・三番瀬」として、漁場名が出てきています。小規模な塩田で作られた行徳の塩は軍用の兵糧(ひょうろう)(食糧)と同等に扱われ、小田原・年貢塩(ねんぐしお)として流通。江戸時代には「地回り塩(じまわりしお)」と呼ばれていました。浦安から幕張までの海岸沿いには塩田が作られ、古くなった塩田は、埋められて畑となり、次に水田として利用されました。一部が丸浜川(まるはまかわ)や新浜(しんはま)鴨場(かもば)として残り、渡り鳥の天国となっています。
 戦後、行徳の水田は蓮田へと変わり、東西線開通と共にその蓮田も埋め立てられ、宅地化されてしまいました。昔、塩田だった名残として、「塩浜(しおはま)」「本塩(ほんしお)」「塩焼(しおやき)」や、海だった名残として「高瀬(たかせ)」「高洲(たかす)」「西浦(にしのうら)」などの地名が残っています。船橋浦の漁師が魚を献上したことから、この地は?おさいうら?御菜浦?として課税が免除されるなど、幕府の保護を受けることとなりました。
 三番瀬の名称の由来については定説がありません。船橋浦の漁場は、東は谷津村(習志野市)境から、西は堀江村(浦安市)境までで、沖の方は櫂(かい)の立つところまでと決まっていました。この漁場のうちには、高瀬・二かいの洲・「三番瀬」などと呼ばれる場所があり、藻草が良く育ち、魚の寄り集まる好漁場でした。

東京湾埋め立ての始まり

 東京湾の埋め立ては徳川家康が江戸城(現・皇居)に入城した1590年に遡のぼります。当初、資材を運ぶために?どうさんほり?道三堀?、行徳から「塩」を運ぶために、隅田川の東、深川村から行徳村まで?おな?小名??ぎがわ?木川?が掘られました。この事からも、塩の重要性がよく分かります。人々が集まり、大消費地となった江戸の町造りのために、次々と遠浅の海を埋め立てて陸地化し、武家地、町人地、寺社地を造ってゆきました。又、ゴミの処分場(永代島・越中島など)として埋め立て、陸地化し、人口の集中した都市部に物資の運搬・集積のための港(江戸湊)が築かれ、経済効率は格段に高まりました。

日本の工業化社会の進展

 18世紀中頃、イギリスで起きた「産業革命」は生産性の低い農業中心の経済から、飛躍的に付加価値の高い産業経済へと変革を促し、富の蓄積がおこなわれました。同時に産業革命は都市への人口集中をもたらし、一方で木材資源から化石エネルギーへの転換がおこなわれ、環境汚染が急速に拡大してゆきます。
 日本では19世紀末、明治政府の殖産興業政策により、内陸部の綿織物から始まり、鉱業、炭鉱、鉄鋼、造船等の重工業に比重が移ってゆきます。産炭地に近く鉄鉱石の輸入に便利な北九州に?やはた?八幡?製鉄所、江戸時代からの埋め立て地、隅田川河口の?いしかわじま?石川島?に造船所が作られました。西欧に追いつけ追い越せとの命題のもと、一生懸命に走ってきた日本はやがて、第二次世界大戦での敗戦を迎え、焼け野原からのスタートとなりました。
 天然資源こそ少ないものの、日本には勤勉さと教育に裏打ちされた質の良い労働力があります。戦後の復興は国土を少しでも増やし、食糧増産をおこなうため、遠浅の湖や海を干拓し、農地を造成したのです。秋田の八郎潟や九州の有明海が干拓され水田に変わりました。 
 そして、都市部においては工業用地や工業化による人口増に対応した住宅地の確保のため、浅い海が埋め立てられてゆきました。こうして、効率よく、大量生産の出来る重化学工業地帯が臨海部に作られたのです。必要な原料を海外から船で大量に輸入し、それを加工して付加価値を高め、世界に輸出する貿易立国です。並行して、食糧増産のため、大量の化学肥料や農薬が必要とされ、電力・ガスを始め化石エネルギーへの依存度が高まり、石油化学コンビナート群が形成されてゆくこととなります。

高度成長期

 東京オリンピックを境に高速道路、新幹線鉄道等の社会インフラが整い、電気冷蔵庫・洗濯機、テレビなどの普及によって物質面では豊かな生活が実現できました。日本は、GDP世界第二位の工業国となり、世界の通貨・米ドルに対する交換比率を終戦直後の360円から約110円へと3倍もの価値を高めることができました。
 現在の物質面での豊かさを?おうか?謳歌?できるのも大消費地・大人口の都市部に近い、郊外の農村地域の開発、臨海部おけるゴミ処理も含めた、機械化された効率の良い埋め立てによる土地造成で、工場用地や宅地の供給がなされたこと。人々の倹約によってもたらされた貯蓄を元に産業資本の調達が可能だったことが大きな要因として考えられます。千葉市の幸町から始まり、浦安市のディズニーランドまで、国道14号線、京葉道路、東関東自動車道、東京湾岸道路に沿った内側部分の遠浅の海が埋め立てられ、工業用地や宅地が造成されたのです。
(伊藤弘輝)

参考文献

内藤 昌(1982)江戸の町・上・下、草思社
池波正太郎(1989)江戸切絵図散歩、新潮社
平井 聖監修(2000)江戸城と将軍の暮らし、学習研究社
鬼頭 宏(2002)環境先進国・江戸、PHP研究所
川名 登(2003)街道の日本史19・房総と江戸湾、吉川弘文館
廣山尭道編著(1997)近世日本の塩、雄山閣
一柳 洋(1989)誰も知らない東京湾、農文協
貝塚爽平(1993)東京湾の地形・地質と水、」東京湾シリーズ、築地書館
その他[三番瀬シンポジウムうらやす]、[県民環境講座・三番瀬の歴史と自然・三番瀬の歴史(浦安市郷土博物館)]の講演内容及び「浦安市立中央図書館・資料」を参考にしました。


みんなで考えよう。
  • 埋め立て用の土砂はどこからもってきたのでしょうか。
  • 人工的に埋め立てたのなら、人工的に元に戻すことができるのでしょうか。