第7章 東京湾開発の歴史に関する3つの話題![]() はじめに 東京湾にはかつて広大な干潟が広がっていましたが、そのほとんどが埋め立てられてしまいました。それらの埋め立て地は、主に工場用地と住宅地になっています。東京湾の開発は、誰が、いつ、どのように、何のために、決定し・実行したのでしょうか。三番瀬問題を考える際には、日本の経済成長を支えてきた湾岸開発を歴史的な観点から評価するとともに、人の労働や暮らしの豊かさの視点から考えることが必要だと思います。 資料にある「あなたと京葉工業地帯の開発関連表」を完成させながら、あなたの時代と重ねあわせて考えてみてください。 地方自治のあり方は、第二次世界大戦後に大きく変わりました。1947年(昭和22年)に、千葉県で初めて選挙で選ばれた知事は川口為之助さん、千葉市長は加納金助さんです。民主主義の社会では、選挙で選ばれた首長と議員に決定権があります(第18章参照)。 東京湾開発の歴史を担った一人の千葉県知事に焦点をあてて振り返ってみます。首長と同じく決定権を有する議員、つまり政治の動きも開発において大変重要な役割を担っています。また、経済の動向も極めて重要です。知事の決定は、これら政治・経済等の折々の状況下でなされてきたと言えましょう。 ここでは極めて限られた情報しか紹介することができませんでした。しかも、その人本人から伺った話しではなく、すでに出版されている本から、私が重要だと考えたものです。本を書いた人、そして私の意図が加わっています。人の行動が複雑なものであることは、自分の行動を考えてみても容易にわかるでしょう。したがって、ここに書かれている事がすべて正しいと鵜呑みにするのではなく、批判的にあなた自身で考えて下さい。 さらに、海苔漁業者の方の手記から、海苔業、海の生業に従事することについて考えてみましょう。 過去のことはすでにあったことですから、どうしても元には決して戻りません。しかし、「イフ:if」もしもそうではなかったとしたらという仮定で過去のことを考えてみませんか。その仮定の思考実験が、今の私たちに必要です。それが、「過去に学ぶ」ということではないでしょうか。ここでのキーワードは「近代化」「都市化」「工業化」「豊かさ」です。 もしも千葉市蘇我地先の日立航空機株式会社工場跡地が競馬場になっていたら? 川崎製鉄(現在JFEスチール)が進出した場所は、1940(昭和15)年内務省の土木会議で「横浜から市原郡養老川までの東京湾岸を埋め立て、戦力増強のため工業用地を造成する」ことが決定されたことに由来します。 1942(昭和17)年に約60万坪の埋め立てが完了し、日立航空機株式会社千葉製作所の機体と発動機を生産し、組み立てる工場が1944年に完成しました。戦争中、千葉県は首都防衛という軍事戦略面から軍郷都市として発展し、それに伴い軍需産業が立地していました。 千葉市は市街地の大半が焼失、1945(昭和20)年に敗戦となり、軍需産業は廃止され、日立航空機株式会社千葉製作所はなくなりました。戦後は国も県も市町村も、行政の重要課題は復興であり、そのための財源探しが課題でした。 政府は即効型の自治体財政の救済対策となる、国や自治体が競馬開催の売り上げの一部を財源とできる競馬法を1948(昭和23)年に施行しました。戦後すぐの公営競馬場は、苦しい庶民のギャンブル熱を利用して財源を確保するものでした1)。 千葉県では2か所の設置が認められ、千葉市・船橋市・柏町(現在市)が名乗りをあげました。ここで、千葉市(日立航空機株式会社千葉製作所跡地)に競馬場ができていたら、1950(昭和25)年に決まった川崎製鉄の進出はどうなっていたでしょうか? 戦後の日本の工業化のけん引力ともなった高炉から圧延までセットされた工場、そのためになされた埋め立て、港湾や航路、電力や工業用水の開発など、現在の京葉工業地帯の経過をたどると、競馬場誘致に失敗したことがよかったといえるかもしれません。 日本の高度経済成長をになった重化学工業でしたが、国際的な産業の構造が変化して、再編が進んでいます。現在、JFEスチールは工場を縮小し、空いた土地を千葉市に売却しました。そこに千葉市はサッカー場を作ります。 豊かな国づくりのために国をあげて工業化を進んできた日本は、生産性のより高い産業にシフトしてきています。 農工両全を目指した柴田知事 「集団就職」や「金の卵」という言葉を知っていますか? 戦後すぐの東北地方の子どもたちだけのことだと考えていましたか? 農・漁業の一次産業県だった千葉県農村地帯からも就職列車が京浜や阪神地方などに出て行きました。農村は農地解放が実施されても、農家の次男・三男の職場の確保が大問題でした。 1950(昭和25)年、税制が改められ、市町村民税、固定資産税、法人事業税などが地方自治体に入る仕組みになりました。昭和30年頃の一坪当たりの土地生産性は当時の金額で農業は84円、工業では5万から6万円といわれていました。このため、農林水産業を主体とし潜在失業者を抱えた一次産業県よりも、大工場や大企業が立地する工業県の方が、税収で有利になりました1)。 1950(昭和25)年に革新系の社民を中心に保守系(旧改新等)の一部に推されて立候補し知事になった柴田氏は、開発のために埋め立てを行いましたが、その背景には次のような農業への思いがありました。
朝鮮動乱による特需景気も消え、1954(昭和29)年に保革共同推薦によって再選された柴田知事は引き続き県財政の立て直しを企業誘致に求めました。 この頃京葉工業地帯造成に対する保守・革新の主張は次のとおりでした。自民党県議のことばとして、
柴田知事は1958(昭和33)年には、知事選に自民党から出馬し、圧勝により三選され、保守系知事として工業化を推進しました。第一次産業の近代化を目指した柴田知事でしたが、日本の工業化による高度経済成長の流れに押し流されてしまったのでしょうか? 私たちの暮らし・社会は私たちがつくるものだと思いますが、持続可能な社会における産業のあり方、特に第一次産業のあり方を考えてみませんか。 海で暮らす 私は海の勉強のために5年間の間に、150日程海洋調査船に乗りました。はじめの2年間は船酔いのために“マグロ状態”でしたが、海にもなれ船酔いを克服したと自信を持っていました。ところが、千葉県に就職し水質監視船に乗ったところ、木の葉のような揺れに・・・。 あまり泳げない私にとって、船で海に出て、自分が乗っている船以外に人間に関するものが何もない!(見えないだけですが)という状況に畏怖を覚えたものです。私の甘い経験から、海で暮らす人の思いがわかるとも思えませんが、渡辺さんの本4)から、印象的だったところを紹介します。執筆者は袖ケ浦市(浦村代宿区)半漁半農の出身の方です。
また、この本には、昭和35・36年の資料として中村憲四郎さんの「五井漁業史」から次の引用がありました。
落合三代治「私の漁業史海苔雑記」の次の文章も同本で紹介されています。落合さんは漁業権を放棄し、のり業をやめました。そのことについて、
海で暮らす人は、海の厳しい自然と向き合っています。ただ、海は厳しいだけでなく、暮らしを支えてくれる恵みを、人の労働に応じてでしょうが、与えてくれる豊かな海でもあります。東京湾では開発のための漁業権放棄という形で、漁業を生業としていた多くの人が、陸に上がりました。しかし、漁業権放棄は単に埋め立てによるものだけではないのではないかと私は考えています。それは、東京湾の水質汚濁がどんどん進み漁業の見通しが立たなかったこと、厳しい労働環境、生産性の低さ、産業構造の変化が背景にあるのではないでしょうか。 しかし、今も東京湾で漁業を生業としている人がいます。自然と共生した社会をめざしている現代、自然とまっこうから勝負しているような漁業から学ぶことが多くあるのではないでしょうか。 (小川かほる)
引用文献 1)土屋秀雄(1997)今だから語れる東京湾の光と影 京葉工業地帯の夜明け、千葉日報社 2)朝日新聞千葉支局(1987)追跡・湾岸開発、朝日新聞社 3)政治・経済(高等学校公民科用)(2000)、一橋出版 4)渡辺亀代二(2000)東京湾岸海苔漁業三百年の顛末、文芸社
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