すいじょうとっこうてい「しんよう」しゅつげきち

84 水上特攻艇「震洋」出撃地


館山市

その他・軍施設

1945(昭和20)年

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年,日本軍は制海制空権を完全に失い,本土決戦体制を整えていた。1月19日には「帝国陸軍作戦計画大綱」が示され,これに準拠した「東京湾守備兵団作戦方針大綱」では,「…水際における撃滅戦を第一義とし,…敵の上陸が予想される館山湾,平砂浦,千倉湾に特に邀撃体制を強化する」とされた。

そのため海軍は,特殊潜航艇を改良した水中特攻艇「海竜」部隊や,水上特攻艇「震洋」部隊を房総半島にも配置した。

「震洋」と呼ばれる特攻艇は,上陸用船舶の撃沈を目的とした,全長5m,約1tの軽構造木造高速艇で,トヨタ4tトラック用のガソリンエンジンが改造して搭載され,爆薬300kgが積まれていた。1944(昭和19)年7月から終戦までに約6200隻が建造され,房総半島の他,伊豆半島,四国,九州の米軍上陸予想地点に配備された。

房総半島では,米軍上陸が予想された九十九里海岸に近く,艦砲射撃に耐える岩場が多い外房の勝浦,小湊と笹川(東庄町)に「震洋j基地が建設された。その後,もう一方の上陸想定地点である相模湾を望む東京湾口地帯にも震洋隊が配置され,本土決戦に備えた。

その一つが「第五九震洋隊真鍋部隊」で,終戦間近の1945(昭和20)年7月14日,西岬村(現館山市)波左間を基地とした。総員は176名で,一型53隻,五型5隻の震洋が配備された。館山市波左間と洲崎の岩場には素掘りの震洋格納壕が残っているが,7月31日付の「震洋艇並びに台車輸送および格納要領」には,波左間基地の壕は7本以上,洲崎灯台近くの壕は4本以上と記録されている。

終戦時には1型艇をすべて壕に格納し,爆装準備も完了。燃料も確保できていたというが,基地進出後の壕整備,艇格納,爆装等の整備や点検に追われていたため,出撃はおろか,捨乗員を乗艇させての海上訓練さえ行われることはなかった。現在,波左間海岸に震洋搬出路跡が残っている。

(杉江 敬)

地形図 「館山」(略)

写真84-1 震洋搬出路跡(1997年)

参考文献

1) 館山市史編さん委員:館山市史,館山市,1971年
2) 愛沢伸雄:戦跡フィールドワークー東京湾要塞地帯に戦争の傷跡をみるー,館山市館山地区公民館,1997年


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