水郷の原風景

変わりゆく水郷

やがて、人びとの水禍への不安は徐々に解消されてゆく。少しずつ外縁の堤防が補強され、まずは昭和17年に附洲、そして昭和38年に八筋川へ排水機場が設けられると、ひとまず大きな水害からは逃れられるようになった。これまで、滞留しがちとなった降水を、シマの外に流しやることが可能となったからである。そして、何といっても昭和39年からはじめられた土地改良事業によって、シマは大変貌をとげていった。

この工事は、利根川本流と常陸利根川の川底をさらい、それで見込まれた650万立方メートルの排土を埋め立てに利用するというものである。以後、これによってエンマやイコは消滅。そして、湿田は整然と区画され干田化し、道路も碁盤目状に整備され、大型農業機械の導入が可能となる。無論、サッパ舟は無用の長物。田の揚水はパイプライン方式となり、水車を使っての水汲みもなくなった。今はバルブをひねればそれでよい。こうして、この工事は14年の歳月をかけ、昭和53年をもって完結したが、いうまでもなくシマの暮らしに一大変革をもたらしたのである。

加えて、昭和30年代には高度経済成長期を迎え、駄目押しとばかりに、日常態そのものも大きく変わっていった。大正・昭和を生き抜いてきた人びとは、誰もが決まったように口にする。「まったく夢みてえだ」と。かつての壮絶な生きざまを、今は懐かしく、感慨をこめながら――。

※なお、図と写真の番号は、『写真集 水郷の原風景』に準拠しています。また、各資料に付してある番号および資料名は便宜上のものです。図と写真の所蔵者は千葉県立中央博物館 大利根分館です。(写真85、88、89は窪木栄佑氏撮影)